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 1935年にフランス航空省が3座戦闘機を求めて発行した仕様書に基づいて設計された機体が元となる双発機。 この仕様書に対する設計案は最終的に ポテ630が勝利を収めたのだが、ブレ ゲー社は仕様書で限定された部分(エンジン出力や機体重量など)の制限を外した方が多用途能力を持ち得るとし て自社負担で開発を続行した。  ブレゲー690と名付けられた機体は1935年から原型機の製作が開始されたが、使用エンジンの割り当てが ポテ630に優先されたため完成は遅れ、1938年3月になってようやく初飛行することができている。  完成した原型機は試験の結果、ポテ630を上回る性能であることは認められたものの、主脚の強度不足か らブレゲー社に返却されている。しかしフランス空軍は1937年頃から複座攻撃機の採用に乗り気となっており、 この原型機は複座攻撃機構想を充分に満たしていたため、複座化して爆弾搭載能力を付与した機体がブレゲー69 1として発注された。  イスパノスイザ製エンジンの信頼性が低かったため、グノームローヌ社製エンジンに変更した693やP&W社 製エンジンを搭載した695なども製作され、第二次大戦開戦直後は進撃してくるドイツ軍に対して果敢な攻撃を 加えた。  フランス降伏後に生産中止されているが、残存機は1942年にドイツ軍へ徴発され後にイタリア空軍に供与さ れ練習機として使用されている。

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1937年スペイン内戦に参加。ポーランド作戦、フランス作戦、バトル・オブ・ブリテン等の大戦初期に活躍したドイツを代表する中型爆撃機。約7,300機製造された。 ヴェルサイユ条約で爆撃機製造を禁止されていた為、ハインケル社により当初は高速旅客機として開発されたため爆弾倉は爆弾を縦に収納する方法で250kg爆弾までしか搭載できない。エンジン換装後、高性能を発揮し大戦初期は高速爆撃機として使用され、使い易さから多くの派生型がある。大戦末期には速度/武装不足になり殆どが輸送任務に就いていた。 P型までは段付機首だったがパイロットの視界と空気抵抗を考慮してP型から段無しの一体形成となりパイロットの視界を考慮してさりげなく機首は左右非対称。 P型のDB601エンジンを戦闘機にまわすため、Jumo211エンジンに換装したのがH型で、これが主生産型となった。

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1937年の初飛行から今でも大活躍だ!

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Ca.309はカプロニ社が設計・製造したイタリア植民地向けの偵察機・軽爆撃機で1937年初飛行。 それまで偵察任務に用いられていたIMAM Ro.1複葉機を置き換える目的で、民間航空会社向けに8機製造された 小型旅客機Ca.308 Boreaをベースにして生まれた。 愛称のギブリ(Ghibli)は砂漠に吹く熱風の意味で、後にジェット軽爆撃機AMX A-11がその2代目を名乗ったほか 日本のアニメーション制作スタジオ「スタジオジブリ」の語源でもある。 単葉双発で、鋼管骨格に、場所に応じて軽合金表皮あるいは木製合板に羽帆張り、動翼部は羽帆張りなどの 複合構造になっていた。当初から植民地向けであったため、高性能よりは単純構造や整備性の良さを設計の 主眼としており、スパッツ付き固定脚や倒立空冷直列6気筒のアルファ・ロメオ115-IIエンジン(390hp)が 採用された。 当初はイタリアの植民地であったリビアに配備され、WWII開戦によりリビアもアフリカ戦線の一部となった ことで実戦参加となり、対抗対空戦力の無い場面で戦果をあげた。 イタリア軍がアフリカを失った際にイタリア本国に引き上げられた機体は後方の輸送任務に就いた。

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戦間期のソ連戦闘機は、初の国内設計機であるI-1以来ポリカールポフ(ポリカルポフとも)の設計した戦闘機であり、本機もポリカールポフの設計であった。原型は1932年に開発が始められたTsKB-3(ЦКБ-3)で1933年に初飛行した。 本機の大きな特徴となっているのがその翼形で、上翼は左右が分割して胴体に取り付けられたガル翼で、前方視界が大きく取られていた。また下翼は半葉とまではいかないものの上翼よりかなり小さく、翼間支柱もI字型の一張間と洗練されていた。この結果、最高速度はやや低かったが旋回性能は第一級であった。部隊配備は1934年末から開始された。 1937年から改良型のI-15bisの生産に切り替わる。改良点は主翼上翼を通常のパラソル型とし、対地攻撃用武装の追加、発動機の出力強化であった。これにより最高速度の向上と軽攻撃機としての運用が可能となった。 スペイン内戦、ノモンハン事変を始めとして、独ソ戦初期まで用いられたが、スペイン内戦ではCR.32相手にI-16では旋回性能が劣ったため、緒戦では劣勢に立たされた。そのためソ連はI-16の改良型ではなくI-15の改良型I-15ter(後のI-153)を開発することとなる。日本においては、ノモンハン事変で日本の戦闘機にかなわなかったためにI-153が開発されたとする間違った説が流布したが、実際にはノモンハン事変よりも前にI-153は開発され、事変での戦闘にも投入されている。 こうして一線級からは外されたが、独ソ戦開始時もかなりの数が部隊配置されており、主に軽攻撃機として使用された。

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WWII前のアメリカ海軍が新型のヨークタウン級航空母艦に搭載すべくダグラス社に開発を依頼した艦上雷撃機。 1935年に初飛行、1937年から就役し、太平洋戦争開戦時の主力艦上雷撃機であった。 アメリカ初の艦載単葉金属機であり、引込脚など当時の先端技術も盛り込まれていた。 デヴァステイターは破壊者の意味。 しかし日本との開戦以降は旧式化がいなめず、ミッドウェー海戦では直衛についていた零戦に迎撃され甚大な被害を出した。それでも珊瑚海海戦で祥鳳を撃沈するなど戦果も挙げている。 後継機のTBFアヴェンジャーの配備が進んだ1942年から前線配備が減少し1944年に全機引退となった。生産数129機。 Mk13魚雷が前下がりに懸架される、主脚は引き上げてもタイヤの下半分が主翼の下に露出したまま残るといった外見上の特徴もある。

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パイパー J3 カブは、1937年から1947年にかけて2万機超が生産されるという大ベストセラーな単発単葉の 民間向け軽飛行機である。 実機にはいくつかのエンジンメーカー・エンジン出力との組み合わせがあるが、MOD化されたのがどの機体を ベースにしているのかは不明。 タイヤ装備の尾輪式固定脚な基本型のほか、双フロートつき水上機型やスキー付き雪上型も同梱されている。 WWII中はアメリカ陸軍が本機をO-59もしくはL-4 グラスホッパーの名称で観測機として5千機ほど採用した。 また戦後イスラエルも数機を導入し第一次中東戦争に使用したとのこと。 (おそらくいずれも無武装)

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製造会社:中島飛行機 製造年度:1937 全長:10.3 全高:3.7 全幅:15.52 翼面積:37.7 エンジン:中島「栄」一一型 馬力:970 最高速度:378 上昇限度:7640

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米海軍が採用した初の全金属引き込み脚付き艦上戦闘機。試作機の初飛行は1937年末。グラマン社の新型機開発(後のF4F)が難航したためブリュースター社(英語の発音を正確に表現するとブルースター社)が提案した本機が採用された。 初期型のF2A-1は1939年6月から配備されたが、これまで飛行機の部品や自動車の製造経験・極少数の飛行機組立経験はあっても飛行機1機全体を量産するのは本機が初めてだったブリュースター社は製造効率が非常に悪く、海軍からの第1次発注数66機に対し最初の半年間で納入できたのが11機しかなかったなど納入の遅延がひどかった。 F2Aの納入が遅れる間にグラマン社はF4Fの完成度を高めることができ、海軍にも採用されて量産に着手した。後から登場したF4Fが性能的に上でもあり納入も順調、海軍では数の揃わないF2Aを見切りつつあって、冬戦争の勃発によりフィンランドへの供与に切り替えられた。 続いて翼への爆装機能追加・パワーアップ型のF2A-2やA-3が生産されたが、増加した重量に対して艦上機としては着陸脚が弱いという欠点も増え、1941年5月までにF4Fに交替して、ミッドウェーなどの基地航空隊にまわされた。またイギリスやオランダにも輸出され、日本軍機の性能が過小評価されていたこともあって、東南アジアの植民地に配備された。これらは太平洋戦争序盤に、日本軍の零戦や隼との戦いで大損害を受けることになる。 本来のアメリカ海軍の要求である艦上戦闘機としては十分な航続力が求められたため燃料搭載量も多かったが、輸出先の陸上運用では航続力の優先度は低かったため、本機の欠点である機動性の悪さを補う目的で燃料を減らした状態で出撃する工夫も行われたと伝えられる。

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 1937年に製造されたドイツ最後の蒸気動車です。上段が登場時、下段が戦後の東ドイツ国鉄時代の姿です。解説:http://blog.livedoor.jp/isorokuma/archives/55481293.html 参考 http://www.reichsbahntriebwagen.de/dt%2059.htm    http://drg-modell-berlin.de/produkt/dt-59-berlin-in-tt/    https://de.wikipedia.org/wiki/DR_59    https://de.wikipedia.org/wiki/Dampftriebwagen    http://neetronica.blog.fc2.com/blog-entry-19.html

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伊号第六十三潜水艦殉難者 荼毘之地 1939年訓練のため豊後水道にある水ノ子島灯台の海域へ配備された伊号第六十三潜水艦は伊号第六十潜水艦に右舷から衝突され沈没しました。佐世保凱旋記念館では海軍合同葬が行われ沈没した水深93メートルからの引き揚げ作業が完了したのは沈没の1年後であり、1991年に『伊号第六十三潜水艦殉難者 荼毘之地』の石碑が建立されました。この石碑は瀬会公園キャンプ場の南側にあり、また同地域にある真宗寺(本堂左奥から裏山へ続く階段を上る)と長崎県佐世保市の佐世保海軍墓地には慰霊碑があります。 海軍中佐 友永丈市君誕生地 温泉の街と知られる大分県別府市の出身である海軍軍人・友永丈市はミッドウェー海戦にて空母飛龍の艦載機の一員として戦いました。飛龍の前には赤城や加賀にも乗り込んでおり、加賀では1937年に起きた日中戦争へ参加しその後は宇佐や霞ヶ浦の航空隊を経て飛龍の飛行隊長に着任します。1942年のミッドウェー海戦では敵戦闘機との交戦で燃料タンクに被弾し飛龍へ帰投するも再び出撃し米空母ヨークタウンへ攻撃を行い戦死、その後は生まれ故郷である別府市に『海軍中佐 友永丈市君誕生地』の石碑が建てられグーグルマップでは『友永丈一大尉生誕地碑』と表記されています。 ちなみに飛龍の隣の銅像は油屋熊八という人物で米相場で成功するもその後に相場で失敗し全財産を失い46歳の頃に別府温泉へ移りホテル経営で成功しました。女性バスガイドが案内をする観光バス(別府地獄めぐり)を日本で初めて導入し、大阪の上空から飛行機でビラをまいたりと別府の名を全国に広めた人でした。1935年73歳で別府市にて死去。 場所:瀬会公園キャンプ場・真宗寺 住所:大分県佐伯市上浦大字津井浦 最寄駅:JR浅海井駅 住所:大分県別府市野口中町16−16 最寄駅:JR別府駅 使用モデル つみだんごさん 潜水空母伊401 ゴリマさん 飛龍改二

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1937年(昭和12年)のこの日、 イギリスのBBCテレビで、 料理番組の元祖と言われる番組〔夕べの料理〕の、 放送が開始されました。 ----------------------------------------------------------- 【お借りした画像】 女性達が料理をしているイラスト【いらすとや様】 ※下ネタや誹謗中傷コメントはお控え下さい※ ※荒らしコメントも厳禁です※ ※変なタグを付けるのもお控え下さい※

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九七式司令部偵察機(きゅうななしきしれいぶていさつき)は、大日本帝国陸軍の偵察機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ15。略称は九七式司偵、九七司偵、司偵など。連合軍のコードネームはBabs(バブス)。開発・製造は三菱重工業。 帝国陸軍初の司令部偵察機として、また事実上の世界初の戦略偵察機として支那事変最初期からノモンハン事件、太平洋戦争(大東亜戦争)初期にかけ、後続機の一〇〇式司令部偵察機の登場に至るまで活躍した。1937年(昭和12年)にイギリスロンドンへ飛んだ朝日新聞社の神風号としても知られる。

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Bf109は、第二次世界大戦におけるナチスドイツ空軍の主力戦闘機。Me109とも呼ばれる。Bf109はまだ航空機が過渡期であった1934年にメッサーシュミット博士が開発したスポーツ機Bf108の経験を元に開発した機体であった。初飛行は1935年で、ハインケル社のHe112と制式採用の座を争ったが結果的にはBf109の勝利に終わった。1937年のスペイン内乱に際してドイツはBf109の初期生産型(680馬力Jumo210B/Dエンジン搭載のA及びB型)3個飛行隊を派遣した。この戦いではソ連の新鋭機ポリカプフI-16やI-15は敵ではなく、ドイツの撃墜王ウェルナー・メルダースが考案し、ドイツ空軍の御家芸となった2機編隊で集団を編成するロッテ戦法が考案されるなど、空中戦闘のノウハウを蓄積するにも役立ち、実戦経験を積ませることができた。そして第二次世界大戦が始まった頃には、Bf109はエンジンを大幅に強化し戦訓を取り込んだE型に切り替わりつつあった。 Bf109は日本の96艦戦などとほぼ同時期の開発であるにもかかわらず、E型・F型での大改修をへて、馬力をほぼ3倍に強化して終戦まで使用され続けた。しかし「小さな機体に馬力の大きいエンジンを」というコンセプトを優先し、他の部分が犠牲になったため、航続距離が短い、操縦席が狭く後方視界が悪い(実際はそこまで問題視はされておらず、手元に近いスロットル位置なども評価されている。)、主脚の強度不足(倒立エンジンはプロペラが低い位置に来るため、脚を長くする必要あった)と狭いトレッド幅、離着陸性能が極めて悪い、火力不足など欠点も多かった。 着陸性能の悪さと航続距離の問題は最後まで付きまとったものの、突っ込み速度は他の追随を許すことはなかった。直線番長に思われるが意外と低速での運動性は良く、逆に動翼が羽布張りのため高速時には痩せて、エンジンブレーキを使わないと操縦が効きにくくなる。 独軍機全般に言える事だが、計器の配列がとても分かりやすい配列になっており、Bf109の場合「右側に動力関係の計器」を、左側には「飛行関係計器をまとめて配置」されている。実際では各種ハンドル、スイッチの類もすべて手短な位置に設置されており、Bf109のテスト飛行をした連合国パイロットからも称賛されている。

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戦車部隊に歩兵を追随させるために1937年から開発を開始した中型装甲兵員輸送車の制式番号を指す。この制式番号がドイツの装甲兵員輸送車の代名詞となった。ドイツ語で"Mittlerer Schützenpanzerwagen"と表記される。

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 ポーランドのイカルス工場では、フランスのポテ社やチェコスロバキアのアビア社から機体ライセンス を購入して航空機製造の経験を積んでいた。1934年になってIK-L1と名付けられた初の国産機開 発が行われ、翌年4月22日に初飛行を行った。この機体はポーランドPZL社のP.8戦闘機( P.11のベースとなったP.7戦闘 機のエンジンを液冷に変更したもの)に似たガル翼単葉の機体であった。  IK-L1原型機は3回目の試験飛行中に急降下からの引き起こしができずに墜落したが、続いて製作 された機体(IK-02と名付けられた)は当時第一線級だった英ホーカー社のフュアリ複葉戦闘機よりも 高い能力を示した。ユーゴスラビア空軍はこの機体を12機発注し、1937年中(1939年説もある) に全機が納入された。  1941年4月にドイツ軍がユーゴスラビアへ侵攻した際に、当機は第4戦闘機連隊第107飛行隊に 所属し、攻め来るドイツ軍戦闘機と果敢に交戦したが多大な損害を被った。

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 仏コードロン社の設計者マルセル・リファール(Marcel Riffard)がドゥーチュ・ド・ラ・ムート杯競速機で培っ た技術を盛り込んで設計したC.500シムーンIVとC.620シムーンVIは1934年のパリ航空サロンに展示さ れ、航空界の注目を集めた。このC.620を元に量産性を高め登場したのがC.630である。  C.630は木製構造を持つ流線型胴体の機体で、固定された主脚も流線型の整形に覆われた優雅なシルエットを しており、発表直後から個人航空家や商業航空業界による注文が相次ぎ、第二次大戦前にはエール・フランスの子会 社であるエール・ブルー(Air Bleu)社などが国内郵便輸送などに使用した。  C.630を使用した長距離冒険飛行も多数企画され、1935年にはフランス〜マダガスカル間の8,665k mを57時間36分かけた飛行に成功したりもしているが、有名な飛行詩人サンテクジュペリは1937年にC.6 35シムーンでニューヨーク〜ティエラ・デル・フエゴ間の飛行に失敗し重傷を負うなど冒険には危険もつきもので あった。  最も多く製造されたのは軍用のC.635Mであるが、第二次大戦が勃発した時点で民間所有だった約60機もフ ランス空軍に徴発され連絡任務などに従事した。またドイツもフランスを占領したときに捕獲した機体を訓練や連絡 任務に使用している。  戦後飛行可能状態で残っていた機体のうち1機は映画 「星の王子さま」にも 登場しているので、ビデオ等で当作品を鑑賞する機会があったら注意してみてほしい。

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Tansoku102cm様の「グラフシュペー」「R級戦艦」「フッド」モデルさん達をお借りしました。ありがとうございます。                                             【『ジョージ6世戴冠記念観艦式』の画像を再現したいと考えたのは2014年10月UPの静画「ビッグセブン」の頃。随分間が開いてしまいました。その一枚のメインは一番前のシュペーさん。当時Tansoku102cm様の「モブポケット戦艦1945」さんを弄らせて頂いていました(遠い目…)。SketchUpにシュペーさんがUpされているのを見つけ速攻DL。検索で見つけた三面図を参考にさせて頂いたのですが…絵師様によって艦橋煙突辺りの位置関係が異なってたりするんですよね・・。当時の写真に重ねて一番近い図面を選択しました・・って何とか形になり改めて静画検索した所102様の新作ポケット戦艦モデルさんを発見してorz。というわけで改装前のライトグレーver.をSUモデルさん、改装&迷彩ver.を102様モデルさんと使い分けをさせて頂く事にしました。

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(1937年4月28日 - 2006年12月30日) イラン戦争、湾岸戦争を引き起こしたのちアメリカとのイラク戦争の敗北によって失脚し、処刑された。

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下描きとか 拡大とか

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