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Seraphic Blue - EP.43 「最後に、一つ質問して良いかしら……?」「ええ。聞くわ」「答えは、ケインにでも聞かせてあげて……」
Try&Re:save2(2017/2/12開催 http://tryandresave.jp/)での頒布情報です。 ※個人主催によるフリゲオンリーイベントです 配置・サークル名:委託07・ITRg 原作:Seraphic Blue 興味ある方はよろしくお願いいたします。サンプル1(冒頭6P)→comic/25432、サンプル2→im6462386。
船路を描きたかったが‥‥ Note: 1000字書けるということで、唐突に、思い出したようなこぼれ話と雑感 ※絵と無関係 Sera-PersonとSera-Human:sm17714018の動画作成時、作中用語の英訳についてeplipswich氏の英訳版も参考にしました(当時もデモ版は公開されていたので)。で、英訳版で後者(Sera-Human)に変えたことには当時も気づきましたが、動画では原作と同じく前者にしました。これに関して私はいくつか観点があると思っています。まず、一般的な英語の用法として生物学的な意味でのヒトを指すのに使う、という意味ではHumanの方が適切だと思います。一方で、セラパーソンという種は単に「ヒトに似た生物学的別種」というのではなく、次の点が特徴的だと思います;a)パーソンの生活史を内包する形で彼らの生活史が成り立つこと(必ずパーソンという段階を経て、セラパーソンに至る)、b)パーソン時に培った精神的な蓄積を持つ点を種の優位性に位置づけていること。こうした観点からは、Personaを語源に持つPersonを用いることに一理あると感じます。こちらを重視して、動画はあのようにしました(当時の判断ですが)。なお、同じくヒトに近い人工生命体であってかつ上記のようなセラパーソンの特徴がないヴィルジニーに関しては、作中にてバイオ"ヒューマン"と表現されています。なので、天ぷら氏の意図は不明ですが、実際に前述のような観点を念頭に置いていた可能性もあるかもしれません。 雑: ・一章裏は、ココモ付近のユアンとWW付近のケインが、某家10年間の軌跡並に気になる。 ・無印→DCは、実際に比較をすると台詞変更点が意外と多く感じる(「言い回しが少し変わった」程度のものは、普通にリプレイしていると気づかなかったりするので、実際に差分確認した際に多く感じられたという話)。 ・無印→DCでのイベントシーン周りの主だった変更の多くは、何となく意図がわかる(OP/EDの流れや、某丘のランサードの推理など)。が、ケインの台詞が色々変わったことの意図はあまり分からないと、昔から思っている(大意は同じながらも重要シーンで変更割合が大きいので、結構印象が違う)。
「ひび割れた魂に、流された血が、熱く痛く、染み渡る。そして止め処無く溢れる涙は、この世界に零れ落ちた」 ※背景はこちらの素材をお借りしています→http://www.openspc2.org/HDTV/
『 その日の深夜、マルゴは工房の裏手にある一室を訪れていた。そこにあるのは、天空穿孔ポート、それを開閉するための装置とグラウンドにおけるガイアキャンサー反応の観測機を兼ねた大型パネル。 子供たちの転送やホーイックの観測など、平素は明確な用事が無ければ訪れることのないこの部屋に、この時に限っては用もなく訪れていた。彼女をそうさせたのは、昼間来た一組の客人だった。大量の金を積み、オーダーの他には一切何も語らなかった男女。一度でもこの街で商売をしたことがある者なら、彼らのような人をさしてこう呼ぶだろう――「最も上質な客」と。「クルスク夫妻……」 本名か偽名か知る術のないその名を、マルゴはわけもなく呟いていた。名前だけでは兄妹・親戚の可能性もあるが、男女の手には揃いの結婚指輪があった。そして年齢から察するに、F2ないしF3世代。フェジテ創生時、様々な観点で最適となるバランスを考慮してF1世代の個体を生成、各都市・町・村へと配分したが、その辺りの詳細な設計は社会科学・資源経済学的なバックグラウンドを持つ別のチームが主担当だったから、マルゴとて全容を把握してはいない。しかし直観的にだが、あの夫婦は社会階層において上位20%までには確実に入る層だろうと、マルゴは見ていた。言葉数は少なかったものの、理知的な所作や顔付き、話しぶり等の面でそう感じられたのだ。 ……普段、マルゴがここまで特定の客に思いを巡らすことはない。夫婦での客人が珍しいというのはあるが、それ以上に彼らが気になる理由について、彼女には自覚があった。『でも、あそこは辺境よ。行くならばすべてを捨てなくてはならない』 それまでの人生で築き上げてきたものを、凡そすべて捨ててでも何かを達成せんとする――かつて自分らがこの大陸に渡ることを決めた意志とはそういうものだったわけだが、それと似たものを彼らの瞳に見た気がした。そこには単なる、心理学で言うところの「投影」もあるかもしれない。しかし何もかもが停滞し時間すらも淀むこの街においては、その片鱗であっても滅多に見ることはない。 ……何にせよこの「狂夢堂」の客である以上、彼らもまた「狂った夢」を追っているのだろう。ただし、それがどんな「夢」であるかを知ることは、おそらく終生無いのだろうが。』