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全く、そんな冗談を言 冗談だぜ!

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【ウエストミンスター宮殿(Palace of Westminster)】                              英連邦首都ロンドンの中心部を流れるテムズ川沿いに建つ宮殿。イングランドの基礎を作ったとされるアングロ・サクソン人の時代から基礎となる建造物があったとされ、中世期の頃までにはイングランド王の宮殿として確立していたと言われる。因みに確認されている部分で最古の建造部分はウイリアム2世の時代に造られたもの。しかし1529年に大火に見舞われたのを切っ掛けとし翌年の1530年には当代の王ヘンリー8世は枢機卿のトマス・ウルシーより譲り受けたヨーク宮殿へと移居し一時的にイングランドに議会と裁判所が二つ存在する状況になった。1834年に再び宮殿は火災に見舞われ、「ウエストミンスターホール」や「聖ステファン教会」の地下や回廊を除く全てが消失してしまう。その後の再建計画では新古典派式建築を望む一派を退けゴシック様式の建築に決定。その一世紀後の第二次大戦におけるドイツ軍のV1ロケットによりロンドンが爆撃を受けた中でも辛うじて被害を免れ、21世紀の現在も併設する時計塔「ビッグベン」と共にロンドンのシンボルであると共に政治の中心となっている。構造は中央の尖塔を境に北側に下院、南側に上院と王室関係が入る「ロイヤルギャラリー」に分かれている。先程建築様式をゴシック様式を取り入れたと記したが視覚的にはあまりゴシック調は目立たず、部分的にバロック様式であったり、古典様式、或いはチューダー様式を取り入れたりと時代の変遷に伴い様々な様式を取り入れている事が分かる。因みにこの建物も1987年に「世界文化遺産」としてユネスコに登録されている。

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まあ、もとを言えば長 古事記の昔からある…

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ダザイさん お城になるアライさん ミライさん…? さくら〜ふぶ〜きの〜 ↑×2 一瞬、某英霊の征 サライさん「24時間 アラライさん 失礼、 タライさん オオタイサン セカイイ

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シリーズですか!続き

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世界遺産登録 おめで 麗華様、素敵ですw なんだろう個人的にす

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ボディが青一色で統一 普通だとあっさりな感

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ペイントで落書きしました(笑) ちょっと遅いけど世界文化遺産登録おめでとう(^^)/

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除外勧告から一転の登録決定。おめでとうございます。

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【クレムリン(Кремль、Kreml')】                                   ロシア連邦首都モスクワ市内のモスクワ川沿いに建つ壮麗な宮殿。ロシア語で「城塞」を意味する。総面積2.25Kmもあり20もの城門、そしてウラル山脈産のルビーの「赤い星」を頂く「トロイツカヤ」「ホロヴィツカヤ」「ヴォドヴズヴォドナヤ」「スパスカヤ」「ニコリスカヤ」をはじめとした数多の尖塔に囲まれたその内部には旧ロシア帝国時代に建てられた「大宮殿」を中心に「グラノヴィータヤ宮殿」「テレムノイ宮殿」、旧ソ時代の共産党党大会が開かれたり現在ではボリショイ劇場のステージとしても使われる「国立クレムリン宮殿」、「聖天使首大聖堂(アルハンゲリスキー大聖堂)」「生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)」「生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂)」などの「ロシア正教会」の各大聖堂、帝政時代に元老院や地方貴族の集会場が置かれていた現在の「大統領官邸」、そして旧ソ時代から現在までのロシアの政治の中枢たる「ロシア大統領府」などによって構成されている。併設されているかの有名な「赤の広場」では毎年大規模な軍事パレードが開催され、その傍らには旧ソの開祖たる革命家「ウラジミール・レーニン」の遺体が冷凍保存されている「レーニン廟」がある(某筆髭オジサンも一時期安置されていたが筆髭の腹心の一人で筆髭の死後権力闘争を勝ち抜き首相になったニキータ・フルシチョフのゲッタードリルが如き回転力の掌返しな所謂「筆髭批判」を受けて速攻「撤去」され近在の「英雄墓域」に埋葬された)。その巨大さや美しさ、歴史的価値からユネスコにより「世界文化遺産」として登録されている。

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【端島(はしま)】                                             長崎県長崎市の南西の海上に浮かぶ無人島。その外観から世間では「軍艦島」の名で知られている島である(帝国海軍の戦艦「土佐」に似ていた事から)。元々は南北320m、東西120mの小さな瀬だったのを数度の拡張工事を経て現在南北480m、東西160m(約6.3ha.で海岸線は約1200m)あり、島全体は護岸堤防で覆っている。似た様な景観の島だとアメリカの脱獄不能と言われた「アルカトラズ元刑務所」を彷彿とさせる。島の基幹産業は石炭の採掘で公式的には1810年(文化10年)に発見されたとあるが記録では1760年(宝暦10年)には既に居住していた漁民が採掘していたという記述もありはっきりとは分からない。領有していた佐賀藩や明治初期に地元の業者が採掘していたが廃業し、その後旧佐賀藩を治めていた鍋島家が採掘権を三菱に譲渡。三菱は島の拡張と採掘用の坑道、採掘作業に従事する炭鉱夫やその家族用の住居用の集合住宅等の建築に着手。最盛期には5267名の人口だったと言われ、東京の九倍以上の過密ぶりで当時世界一の人口過密度を誇った。当然仕事柄採掘作業は危険であり、その犠牲者も記録では3333名出たとされる(島の火葬場の記録から大半が日本人だが何割かは中国人、朝鮮人など外国人労働者も含まれる―――とある)。島には当時最先端の建築技術で作られた集合住宅が作られたがやはり住環境は厳しく労働待遇は更に劣悪で「星を頂いて入抗し、星を仰ぎ見て出抗する。日を見る事は無し」と言われる程にキツい労働をしてるのに賃金や保証金が些少で後に裁判にも発展した程である。やっぱ三菱はク(ry。しかしエネルギーの主流が石炭から石油へと変わっていくと他の炭鉱同様に衰退し、1974年に遂に廃坑となる。この頃には住環境や福祉の改善がかなり進んでいた事から考えれば残念ではあるが。それから長らく一部の廃墟マニアのキャメラマンの被写体程度の価値しかなかったが、「産業遺産」として2014年に国史跡に、2015年に近海の高島を含めた島々が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として「世界文化遺産」に登録された。

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