二次大戦 を含むイラストが 199 件見つかりました ( 161 - 180 件目を表示 ) タグで検索

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1932年にフランス海軍から出された長距離海洋偵察/爆撃飛行艇の要求に基づいて開発された 機体。1933年12月に初飛行した原型機はグノームローヌ9Kbrエンジン(500hp)を搭載していた が長期間の評価試験により、エンジン出力強化や尾翼設計の変更、機首銃座の廃止が盛り込まれ制式 採用となった。エンジンは主翼上に3基が三角形配置されているが、中央の1基は後方へプロペラを向 けた推進型となっている(上掲写真は機体中央(後方配置)のエンジンが判別しにくく双発機に見え てしまうことに注意)。  制式採用となったものの生産型として製作されたのは7機と少数で、原型機を含む全機がカルーパ を基地とするE7飛行隊に配置された。1939年に第二次大戦が勃発すると部隊は地中海での哨戒 任務に従事することになり、この哨戒任務で半数の4機が戦没した。  生き残っていた4機のうち3機も1940年6月にイタリア軍がおこなった空襲により破壊されて しまい、最後の1機についてもその後消息が語られることはなかった。

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 1920年代末にイタリアのOFM(Officine Ferroviarie Meridionali:南部鉄道工房)社で開発が始まった 軽単座戦闘/曲技飛行機。同社は1935年にブレダグループに買収合併され、IMAM(南部機械および航空機 工業)社に再編された。  1934年に完成した原型機は下翼面積が小さい複葉機で、鋼管構造(主翼は木製構造)布張り(胴体の一部は 金属鋼板張り)のオーソドックスなもので、約400馬力のエンジンが搭載された。軽戦闘機や曲技飛行機を目指 しただけあり運動性能は良好だったが、同年6月16日の初飛行ではイタリア軍の注目を引くことはなかった。  イタリア軍が当機を発注したのは初飛行から1年ほど経った1935年半ばのことで、その後第二次大戦でイタ リアが休戦するまでの間に700機あまりが納入された。当機がデビューした当時の基準でも馬力不足の感は否め なかったが、運動性が優れていたため、軍では戦闘練習機や曲技飛行練習機として使用された。なお、スペイン内 乱で第一線機を消耗したイタリア軍では、少数の当機を一時的に戦闘機部隊へ配備している。また、25機がスペ イン・フランコ軍に供与された。  時代遅れの感があったものの当機は空軍兵士に人気のある機体で、ドイツ軍も当機を練習機として使用し、戦後 もアグスタ社で少数機が新生イタリア空軍向けに製作され、イタリア空軍が最初に作った曲技飛行チームも当機を 1950年頃まで使用していた。

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  第二次大戦中に、日本軍が使用した九九式手榴弾。モデル製作者様・ヌルさんのモデルのread meに、親切丁寧な説明が載っています。 興味がある方は、ダウンロードしてみてくださいね。 安全ピンを引き抜き、弾体上部の発火装置の先端を固い物に叩きつけ、遅延薬(導火線代わりの火薬)に点火。4~5秒後に手榴弾が爆発します。 発火装置の付け根の真横にガス抜き穴があって、遅延薬が出す煙が噴き出します。煙には、手に当たると火傷するくらいの勢いがあるそうです。 (イラストの煙はショボいですが ^^; )   お借りしたもの   大人にとり v2.00(kuri様) 九九式手榴弾風モデル(配布)(ヌル様) ↑PMXエディタで2倍の大きさにしてあります。 26年式拳銃(maimai様) ガレキ町1.0(BTA/kerolin jo様) PMXエディタ0.2.5.7(極北P様)  

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ハインケルHe162(ザラマンダー)はドイツのハインケル社が第二次大戦末期に投入した小型ジェット戦闘機。 なお、一般には「ザラマンダー(サラマンダー)Salamander;火トカゲ」の名で知られるが、正式な名称は「シュパッツ(Spatz;スズメ)」である。 ドイツ軍需省と航空技術部の国民戦闘機(フォルクスイエーガ)計画によりハインケル社が9日という超短期間で製作した生産計画書に基づき生産された。運動性は良かったが安定性などに欠陥があり操縦には熟練を要したが戦況に悪化により解決は先送りされ270機余りが生産された。

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(今の自分も含めた)学校の誰もが到達していないであろう領域の「魔法」をいとも容易く駆使する、その「光景」を。                                                  ▽                                                 【母なる祖国像(ロシア)】                                        嘗て旧ソ時代に「スターリングラード」の名で知られた「ヴォルゴグラード」郊外のママエフの丘に建っている巨像。かの第二次大戦最大級の激戦の一つに数えられる「スターリングラード攻防戦」でのソ連の勝利を記念して1967年に建てられた巨大な女神像。本体が52m、剣の長さが33mの計85mという巨大な物で建像当時は世界最大を誇っていた(現在はインドのグジャラート州に建つ政治家サルデール・パテールの像である「統一の像」(240m))。因みに丘に続く200段の階段は200日に及ぶ激戦の日数を表している。像のモデルは地元女性であるヴァレンティナ・イゾトヴァさんで彼女をモデルにセルビア系ロシア人彫刻家のエヴゲーニイ・ヴチェーチチが中心となって作られた。この地には攻防戦を指揮した第62軍の指揮官であったソ連軍元帥のワシーリー・チュイコフや同地で多数のドイツ兵を射●したソ連軍最強の狙撃手であるヴァシリ・ザイツェフが埋葬されている。しかし昨今、像近辺の地下水位の変動によりその基礎がピサの斜塔の様に徐々に傾きつつあるらしく、このまま行けば本体重量のみで支えられている女神像は崩壊するであろうと言われている。まるであの国の「未来」を暗示しているようですねぇ……(意味深)

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フィアット CR.32 (Fiat CR.32) はスペイン内戦 (Guerra civile spagnola) と第二次世界大戦でイタリア空軍 (Regia Aeronautica) によって使用された複葉式の戦闘機。当時は最もすばらしい複葉戦闘機のうちの1つに数えられたが、より先進的デザインの単葉機によって追い越され、第二次大戦開戦時の1939年には時代遅れになっていた。 CR.32はフィアット CR.30を設計の母体に据えて技師チェレスティーノ・ロザテッリ (Celestino Rosatelli) によって開発され、そのデザインが生かされた流線形な胴体を特徴とする。2翅プロペラは同社製の600馬力エンジン、フィアット A.30によって駆動された。武装はエンジンカバーの上に2丁の7.7 mmか12.7 mm SAFAT機関銃を装備した。後期には機首上面に2丁のプロペラ同調式12.7mm Breda SAFATと下翼にプロペラを避けて左右1丁ずつの7.7mm Breda SAFATを備えたものもある。

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後席の旋回機銃がチャームポイントの、morokkoさんの零式水上観測機。機体ともども実物の特徴をよくつかんでいて、なんとなく得した気分です。  第二次大戦参戦国の中で、いちばん最後に制式化された複葉の実戦機(たぶん)。 太平洋戦争中、本来の用途である艦隊決戦時の弾着観測を行う機会はついに訪れず、偵察・船団護衛・対潜哨戒などの任務に就き、 輸送船を襲う敵の艦爆を撃墜したり、航行中の敵潜水艦を爆撃で撃沈したりする戦果を挙げています。  お借りしたもの:零式水上観測機(morokko様)  摩耶・鳥海Ver1.0(cham様) animesky(seasalt様)

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 1934年に米陸軍が出した新型爆撃機に要求に応えて開発されたダグラス社の B-18だったが、同じ要求に 沿ったボーイング社のB-17と 比べると魅力に欠けていたことは事実だった(実際、B-17が約一万三千機も生産されたのに B-18は350機ほどしか生産されなかったことが裏付けとなっている)。  ダグラス社では1938年にB-18の欠点を改良した機体を米陸軍へ提示、陸軍も提案を受け入 れたため、この改良型にB-23の名称を与え38機の製造契約が与えられた。B-23は一見B- 18に似た双発の機体であったが、主翼は拡大され、胴体も空力的に洗練が行われ、垂直尾翼も拡大 されるなど細かい点が新設計となっており、また米陸軍爆撃機として初めて尾部銃座を搭載した機体 でもあった。さらに搭載エンジンもB-18のものより出力が強化されたものとなっており、大幅な 性能改善が施されていた。  1939年7月に初飛行した当機は、陸軍航空隊の審査で当機の爆撃機としては実用充分な性能を 持っていることが証明されたが、第二次大戦勃発後に欧州からもたらされた情報によると、欧州戦線 で現在就役している、または今後出現するであろう爆撃機に比べると能力的に劣っており、またこれ 以上の改良による伸びも期待できないとされ、1940年後半には一部の機体が沿岸部哨戒任務に従 事したのみで、他は訓練用へ回されることとなり、追加の生産発注は行われることなく終わった。  42年に15機が汎用輸送機(UC-67)へ改造され、残りの機体はエンジンテストベッド機や グライダー曳航機へと転身した。大戦を生き残った機体は民間航空業者に払い下げられ、乗員2名と 乗客12名を乗せる旅客機として戦後長い間使用されている。なお、大富豪ハワード・ヒューズも個 人用輸送機として払い下げ機体を1機購入、改造を施し使用したという。

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1912年バルカン諸国の当地が難しくなってきたころ、オスマントルコはギリミア国とともにアスレリア国を独立させた。 しかし現実は傀儡国で欧州に向けてのアピールに過ぎなかった。 フランスとロシアの支援を受け、実際に独立したのは1914年4月7日であった。 第一次世界大戦ではさいどオスマンに占領されるが、イギリス・ギリミアの支援を受けオスマン軍を撤退させた。 第二次世界大戦では、ドイツ・イタリア・トルコ・日本による枢軸国と戦争になるが、イギリス軍が駐屯していたことと、トルコとの永久不可侵を結んでいたため、トルコは攻めてこなかった、ドイツ・イタリアから空爆はありさらにドイツから強襲上陸を受けたが実際の洗浄はギリミア国境戦であった。 アスレリア領土はマルマラ地方、エディルネ、西イスタンブール、クルクラーレリ、テキルダー 国家意味 青は港町である首都イスタン 緑は農業、水産資源 黄色 幸せや輝き 国旗の左上の十字マークは第二次大戦後に付けられたギリミアとの友好の証 ちなみにギリミア領土、ギリシャ、ブルガリア、北マケドニアの一部である。

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 仏コードロン社の設計者マルセル・リファール(Marcel Riffard)がドゥーチュ・ド・ラ・ムート杯競速機で培っ た技術を盛り込んで設計したC.500シムーンIVとC.620シムーンVIは1934年のパリ航空サロンに展示さ れ、航空界の注目を集めた。このC.620を元に量産性を高め登場したのがC.630である。  C.630は木製構造を持つ流線型胴体の機体で、固定された主脚も流線型の整形に覆われた優雅なシルエットを しており、発表直後から個人航空家や商業航空業界による注文が相次ぎ、第二次大戦前にはエール・フランスの子会 社であるエール・ブルー(Air Bleu)社などが国内郵便輸送などに使用した。  C.630を使用した長距離冒険飛行も多数企画され、1935年にはフランス〜マダガスカル間の8,665k mを57時間36分かけた飛行に成功したりもしているが、有名な飛行詩人サンテクジュペリは1937年にC.6 35シムーンでニューヨーク〜ティエラ・デル・フエゴ間の飛行に失敗し重傷を負うなど冒険には危険もつきもので あった。  最も多く製造されたのは軍用のC.635Mであるが、第二次大戦が勃発した時点で民間所有だった約60機もフ ランス空軍に徴発され連絡任務などに従事した。またドイツもフランスを占領したときに捕獲した機体を訓練や連絡 任務に使用している。  戦後飛行可能状態で残っていた機体のうち1機は映画 「星の王子さま」にも 登場しているので、ビデオ等で当作品を鑑賞する機会があったら注意してみてほしい。

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「F8Fベアキャット戦闘機と並び、最強のレシプロ戦闘機・第二次大戦中の最優秀戦闘機と評される(wiki)」P-51。でも「最強」では無いと。自分が大戦機(期)に乗るならMe262を別格としてP-47Dなのは変わりませんねぇ。他の2機と比べ捻りの無いタイトル。『最強兵器入門』で堀越二郎氏も「マスタング」と書かれています。でも自分は「ムスタング」と覚えてきたのですよね‥。いつから?元々?             【「グリフォン スピットファイアMk. XXII」。5翅プロペラの回転はマーリンと逆。前回im7964585はS.6Bと並んで貰いました。22型の全長は?なのですがグリフォン搭載XVIII型はwikiに10.14mとありましたので合わせてみました。発展型スパイトフルの全長は 9.861 m、3枚ブレードの二重反転プロペラのシーファングは10.0mピッタリ。プロペラ替えても変わらないかな。10.15mのP-51も、ペラ(エンジン)換装して全長は変わらないかなと。カウリング上部は要加工ですが・・。2重反転ペラの回転エンジンは前回のマッキ同様、touhu様の53センチ魚雷モデルさんからお借りしています。

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ブロック社が開発した4座爆撃機MB200の 発展改良型として開発された機体。胴体はさほど形状に変化が無かったが、主翼は低翼配置に改められ(逆に水平尾翼 は若干高い位置に移動した)、主脚は引き込み脚となるなど近代的な改設計が施されている。  MB200の量産発注と前後して開発が始められ、1934年末に原型が初飛行した。MB200に比べ性能がアッ プしていたため、フランス政府は当機の量産を発注し36年から量産型の納入が開始された。量産はMB200同様に フランスの航空機メーカー各社で行われている(ブロック社が製造した機体はごく少数である)。  最盛期には12個の爆撃機部隊に配備された当機であったが、1930年代末には時代遅れであるとして順次新鋭機 への転換が行われることになった。しかし第二次大戦の勃発により転換は間に合わず、結局フランスが降伏するまで当 機は第一線で使用されることになってしまい、ドイツ軍との交戦で多大な損害を被ることになってしまった。  なお、ルーマニア空軍に輸出された機体(10機または24機説、45機説あり)もあるが、フランス本国の機体と 同様に侵攻したドイツ軍に接収され、ごく一部がドイツ軍の訓練任務などに再利用されている。

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 第二次大戦が勃発し、欧州方面で輸送に必要な航空機を補うための軍用グライダーが多数必要と されるようになると、米陸軍も輸送や強襲に使用できる曳航グライダーの開発を行うこととした。  戦前は小型複葉機のメーカーとして愛好者の多かったワーコ社に対して、(強襲作戦となると 使い捨てされることが多いので)金属資源を多用せず、大きく開く機首から完全武装の兵士もしく はジープ、4分の1トントラック、75ミリ榴弾砲などを積み降ろしできる機体の開発を指示し、 同社は1942年になってCG-4Aと名付けられた機体を完成させた。同年8月に根拠地となる セデーリア(Sedalia)基地が作られ、11月には当グライダーと曳航用の C-46輸送機、 C-47輸送機を装備した第 12空挺輸送司令部が結成された。  半年ほどの訓練の後、43年7月のシシリー攻略を初陣としてノルマンディ上陸やユーゴスラビ アパルチザンへの物資輸送任務などに従事し、またビルマ・インド戦線でも対日戦に使用されてい る。  CG-4Aは終戦までの3年間に一万二千機を越える数が製造され米陸軍だけでなく米海軍や英 空軍にも使用されたている。また大戦末期になって曳航速度を高めた改良型CG-15Aも一千機 の発注が行われているが、終戦のためCG-15Aの製造は発注数の約半数に終わった。  ちなみに複葉小型機の製作メーカーであったワーコ社(WACO/Weaver Aircraft Company of Ohioの略) はCG-4Aの量産のためもあって1942年には複葉小型機の生産を終了しており、終戦のため 軍からの発注が無くなった1946年に廃業している(その後にWACOの名を冠した複葉機を製作し たり、旧来のWACO製複葉機ユーザーに対するアフターサービスを展開したのは別会社である)。

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金属不足に備えた軽量小型の木製戦闘機。  第二次大戦が始まるとアルミニウムなどの戦略物資不足に備えて木製航空機の開発が進められた。ベル社が開発した小型木製のXP-77は層流翼に機体に比して大馬力のエンジンを装備することで高性能を目指した。三車輪式の着陸装置やプロペラ軸を通して発射する20mm砲が特徴。  しかし、戦略物資不足が現実的でないことが分かると計画は優先度を下げられ、初飛行は1944年となった。その頃には軍も興味を失っていた上、低性能や視界不良、振動問題が解決出来ず、計画中止となった

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  第二次大戦末期、ドイツで作られた簡易小銃の一つ、VG1-5。今はVG-45と呼ばれているんですね。私は昔の人()なので、昔の名前で通しています。 敗戦が確実となった絶望的な状況の中、ドイツは兵員不足を補うために徴兵年齢を14歳~60歳に拡大。彼らは国民突撃隊と呼ばれました。この根こそぎ動員に対して大量の武器が必要となり、それに応じて 開発されたのがVG1-5をはじめとする国民突撃銃です。早く安く作るため、設計・部品の形状をできるだけ単純化して、町工場でも作れるようになっています。多くの下請け工場に一つの部品を 専門に作らせ、元請け会社が集めて組み立てる。これによって大量供給を計画したものの、空襲の影響で思うように部品が集まらず、製造されたVG1-5は1万丁程度という数字があります。 これでは焼け石に水で、いちばん多く供給されたのが、すでに大量生産中だったパンツァーファウスト(うどんげの足元に転がってるやつ。1発撃ったら終わりの対戦車兵器)だったとか。 子供と老人で構成されたにわか軍人と、使い捨て兵器の組み合わせ。こうなると、戦争はもう負け確定ですね。   久しぶりに、東方モデルです。スカートだと片膝ついたポーズは無理(どうしても太ももが突き抜ける)なので、体操服(お気に入り♪)になりました。   お借りしたもの   鈴仙・優曇華院・イナバ改変 体操服ver1.016( 3A07gun (ブルマP) 様 ) 姫海棠はたて体操服ver.0.99( 3A07gun (ブルマP) 様 ) VG-45 ver1.02(とりそば様) M39柄付手榴弾(とりそば様) Panzerfaust_v1.1(とりそば様) BMW・R75(ナオユキ様) ガレキ町1.0(BTA/kerolin jo様) PMXエディタ0.2.5.7(極北P様)   ※銃とバイクは0.7倍、手榴弾は0.8倍にしました。  

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【坂井三郎(1916ー2000)】                                                  ▽                                                  「坂井佐久良」の先祖である人物。佐賀県出身の元大日本帝国海軍軍人。「ポツダム昇級」により最終階級は中尉。困窮した幼少期や上京したものの青学中等部を成績不振で落第するなど苦労をする。しかし帰郷後に見た同郷の佐世保航空隊所属の平山五郎大尉の操縦する飛行艇を見て飛行機への憧れを抱き紆余曲折を経て海軍へ入隊。戦艦「霧島」や「榛名」の砲手を務めるが空への憧れを捨て切れず何度か受験をした後に年齢ギリギリに操縦練習生に合格。しかし当初は操縦が上手く無く卒業間際に漸く単独飛行を許され、その後努力を重ね操縦練習生を首席で卒業。卒業式で昭和天皇の名代として来た伏見宮博恭王より恩寵の銀時計を拝領する栄誉に授かる。その後複数の航空隊所属を経て戦乱下にあった大陸に渡り中華民国軍相手に初の実戦と撃墜を経験。その後再び前に所属していた台湾の高雄基地に戻り、程無くして海南島の三亜、ベトナムのハノイを経て再び大陸に戻りソ連領からの「援蒋ルート(北方ルート)」寸断の為の作戦に従事、この時当初の「九十六式艦上戦闘機」から乗り換えていた「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」の搭乗後初の撃墜を経験。それから東南アジアの各戦線を転戦した後に1942年にニューブリテン島のラバウル基地に配属。同じ中隊に配属していた同じ中隊の「西沢広義」(87機撃墜)と「太田敏夫」(34~36機撃墜)らと様々な逸話を遺す。しかしその四か月後ガダルカナル島上空での戦闘で負傷、この時に右目を失明する程の傷を負う。本土に戻り一度は転職を考えるもその後無理を押して復帰。硫黄島の戦いでは誤って米軍機15機に紛れてしまい危うく逃げ果せた。その後かの最強の航空部隊で知られる「第三四三航空隊(剣部隊)」に所属するも粗暴な面のあった坂井は若い搭乗員達とは折り合いが悪く、特に「武藤金義」(30機撃墜)とは激しく対立する程だった。1945年8月17日に第二次大戦最後となる空戦を最後に戦闘機乗りとしての経歴を終える。公式の認可する総撃墜数は28機。

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F8F ベアキャット(Grumman F8F Bearcat )は、アメリカ合衆国のグラマン社が開発し、第二次大戦後にアメリカ海軍で運用された艦上戦闘機。 愛称の「ベアキャット (Bearcat)」は、ビントロングの別名であり、勇敢な闘士という意味もある。小型軽量化及び徹底的に洗練された空力構造、高い防弾性能をもつ機体に大出力のエンジンを搭載し、陸軍航空隊のP-51マスタングと並び、最強のレシプロエンジン戦闘機、また最強のレシプロ艦上戦闘機と評される事もある。

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 ユーゴスラビアの航空技術者リュボミール・イリチ(Ljubomir Ilić)、コスタ・シブツェフ(Kosta Sivčev)、 スロボーダン・ジュルニチ(Slobodan Zrnić)らの手で開発された単座戦闘機。木金混合構造の片持ち 低翼単葉という比較的近代的な設計で、広い車輪間隔を持つ引き込み式主脚や後方にスライドする密閉式風 防などは固定脚、開放式操縦席などが主流を占めていた当時の機体と比べて最先端を行くものであった。  1938年5月に原型機が初飛行を行い、満足な性能を示したため同年11月に12機が発注された。翌 年1月に原型機が墜落事故をおこしたため若干改良を加えられた生産型機は全機が1939年7月までに部 隊配備されジェムン(Zemun)を基地とする2個飛行隊に配属された。  第二次大戦が勃発し、1941年4月にドイツ軍がユーゴスラビアに対し侵攻を開始すると当機もドイツ 空軍と果敢に戦ったが多勢に無勢であり、11機のドイツ軍機を撃破したという報告が残っているだけで、 正確な戦果などは不明である。  なお、残存した機体はドイツ軍の接収を恐れベリキ・ラドニツィ(Weliki Radnici)臨時飛行場にてユーゴスラビア軍自身の 手で破壊されたとされているが、独軍の記章をつけた当機の写真が残っているので、ごく少数が独軍に接収 された模様である。

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モデル:れお=ぱるど様 (浅桜摩利) アクセサリー:Ichiro様 (ステン短機関銃) 背景:キャベツ鉢様 (荒野とサボテンセットver1.0)    aokcub様 (++skies; 036 16k) ポーズ:     daito様      作画のための第二次大戦軍服&軍装資料より      作画用にデフォルメしたイギリス軍歩兵[突撃するポーズ] URL:https://genkosha.pictures/illustration/1803074347      (記事の最下部)

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第二次大戦直前、きな臭くなる欧州の軍事状況からフィンランドでは国産戦闘機の開発を行う ことを決定し、数を揃えるため安価に製作できる機体の設計を行った。  木金混合構造で木製合板張りの主翼、胴体外皮は一部布張りの機体に、プラット&ホイットニー 社製ツインワスプ(のライセンス品でスウェーデン製)空冷エンジンを搭載した原型機が3機製作 され、1941年12月に初飛行を行った。開発・製造を行ったのはVL(国営航空機工場)である。  原型機(ミルスキーIと呼称される)は重量過多で扱いにくい機体だったため、原型 機は3機とも飛行試験中に喪われてしまったが、当局は生産型の発注を行いミルスキーIIの呼称で 47機の生産が行われている。最初の20機は1944年に部隊配備されたが、能力が低く強度的 にも問題があったため戦闘機として活躍することはできず、主に偵察機として使用されることが多 かった(戦闘機としての任務にあまり従事しなかったのはドイツから提供された Bf109があったため必要 性が薄かったことも影響している)。  ミルスキーIIに続いて改良型であるミルスキーIIIの生産が行われたが、第二次大戦終結により 生産は中止され、十機ほど完成していたミルスキーIIIは実戦配備されることなく終わっている。

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