伏見宮博恭王 を含むイラストが 2 件見つかりました ( 1 - 2 件目を表示 ) タグで検索

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井上ははなっから辞め 昭和史は詳しくないけ なんか和むなw

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【坂井三郎(1916ー2000)】                                                  ▽                                                  「坂井佐久良」の先祖である人物。佐賀県出身の元大日本帝国海軍軍人。「ポツダム昇級」により最終階級は中尉。困窮した幼少期や上京したものの青学中等部を成績不振で落第するなど苦労をする。しかし帰郷後に見た同郷の佐世保航空隊所属の平山五郎大尉の操縦する飛行艇を見て飛行機への憧れを抱き紆余曲折を経て海軍へ入隊。戦艦「霧島」や「榛名」の砲手を務めるが空への憧れを捨て切れず何度か受験をした後に年齢ギリギリに操縦練習生に合格。しかし当初は操縦が上手く無く卒業間際に漸く単独飛行を許され、その後努力を重ね操縦練習生を首席で卒業。卒業式で昭和天皇の名代として来た伏見宮博恭王より恩寵の銀時計を拝領する栄誉に授かる。その後複数の航空隊所属を経て戦乱下にあった大陸に渡り中華民国軍相手に初の実戦と撃墜を経験。その後再び前に所属していた台湾の高雄基地に戻り、程無くして海南島の三亜、ベトナムのハノイを経て再び大陸に戻りソ連領からの「援蒋ルート(北方ルート)」寸断の為の作戦に従事、この時当初の「九十六式艦上戦闘機」から乗り換えていた「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」の搭乗後初の撃墜を経験。それから東南アジアの各戦線を転戦した後に1942年にニューブリテン島のラバウル基地に配属。同じ中隊に配属していた同じ中隊の「西沢広義」(87機撃墜)と「太田敏夫」(34~36機撃墜)らと様々な逸話を遺す。しかしその四か月後ガダルカナル島上空での戦闘で負傷、この時に右目を失明する程の傷を負う。本土に戻り一度は転職を考えるもその後無理を押して復帰。硫黄島の戦いでは誤って米軍機15機に紛れてしまい危うく逃げ果せた。その後かの最強の航空部隊で知られる「第三四三航空隊(剣部隊)」に所属するも粗暴な面のあった坂井は若い搭乗員達とは折り合いが悪く、特に「武藤金義」(30機撃墜)とは激しく対立する程だった。1945年8月17日に第二次大戦最後となる空戦を最後に戦闘機乗りとしての経歴を終える。公式の認可する総撃墜数は28機。

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