周南市 事故 を含むイラストが 1 件見つかりました ( 1 - 1 件目を表示 ) タグで検索

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 三人兄弟の次男として生を受け、元々は画家を目指していたはずがなんの因果か海軍志望。  士官候補生時代はいわゆる「悪ガキ」であり、指導役もかなり頭を悩ませたという。  我が強く喧嘩腰、間違ってることには上司にも食らいつく(たまに殴る)過激さの一方で、他人以上に自分に厳しく常に工夫と努力を怠らない人柄から、多くの人々に好かれていた。その辺が、自分をぶん殴った板倉に恩赦を与え、後に彼の手土産のブランデーの瓶を死に際するまで手放さなかった当時の「最上」艦長、鮫島具重大佐のエピソードに現れている。  彼が乗り継いだ艦は時系列順に扶桑、最上、青葉、伊68(のちの伊168)、加賀、そして如月。如月以降は本格的に潜水艦乗りとして手腕を発揮し、派手さはないが必ず生還することで高い信頼を得た。  ……実は如月での航海長時代に、座礁事故を起こしているらしい。すぐに復帰したから良かったようなものの、意外に抜けてるところもあったりする。  また太平洋戦争末期あたり、特式内火艇「カツ」を使った「竜巻作戦」の実行を命じられるが、「カツ」が使い物にならないと上層部に食って掛かり大目玉を食らっている。  この後、人間魚雷「回天」部隊の育成を受け持つことになり、山口県徳山市(現・周南市)の大津島突撃隊司令を拝命。多くの若者を教育しながら自身も回天による出撃を熱望したがついに叶わず、終戦を迎える。終戦時は自決すら覚悟したが、説得されて回天隊の戦後処理に当たった。 「一度死を本気で決心した後、生の喜びを味わい、『生きていることの本当の意味』が解った者に、再び死の覚悟をさせるのはあまりにも残酷すぎる」 その当時の彼を象徴する言葉である。  戦後は海上自衛隊幕僚技術部、三菱重工業神戸造船所勤務。また1963年(昭和38年)4月、海上自衛隊潜水艦「はやしお」の深々度公試で操艦を指揮し、かつての「不死身の男」の健在ぶりを見せていたようだ。  幾度となく死線をくぐり(場合によっては味方からの切腹命令もあった)、その度に生き抜いてきた不死身の男も時の流れには勝てず、2005(平成17年)10/24、永眠。晩年、人の判別もできぬほど弱っていたらしいが、それでも夫人の顔だけは忘れなかったという。

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