昭和16年 を含むイラストが 19 件見つかりました ( 1 - 19 件目を表示 ) タグで検索

<<前の20件 | 1 | 次の20件>>
絞り込み: 一般 (19)  |  春画(R-15) (0)  |  すべて (19)

日本社会党は南樺太返 次は北樺太までブン取 固有の領土という概念 択捉島返せ(観光に行 もしも占守島(しゅむ うかうかしてたら南西 日本共産党の主張がこ ↑線で別の枠作

閲覧:4610 コメ:14 クリップ:20

因みに五人衆のキャラ CVはジェッターズのボ

閲覧:497 コメ:2 クリップ:1

ロシアが崩壊すれば、 次戦争する時は台湾、 交渉で取り戻せるとは MRYMHDKの言ったこと 新南群島が入ってない 南樺太は日本自身が破 とりあえず、終戦後に

閲覧:2015 コメ:7 クリップ:7

いわゆる「一號艦」で あぁ、この写真は見た 奥の間宮に隣の鳳翔さ 建造っていうか擬装?

閲覧:1004 コメ:4 クリップ:5

おまえ、うまそうだな ↑やめませい! 24歳か、セ○クスして 提督「浜風さん、24歳 「パノラマ」が「パン 24歳!合法! 24歳とか大好物なんだ

閲覧:2337 コメ:7 クリップ:9

そして今日取り上げる あの写真だろうとおも でも、もしあの駆逐艦 ↑リアルでも睦月型「 「提督の決断」「鋼鉄 後からの絵を伝って来 雰囲気にとても合って

閲覧:5731 コメ:7 クリップ:9

ほんとだ、ちっこいの

閲覧:298 コメ:1 クリップ:1

わぁ~!可愛いくて綺

閲覧:726 コメ:1 クリップ:9

これは脱走防止のため 暗闇でも自分の銃が判 マジコメすると、これ 焚き火のあれかよwwww 交代で歩哨をする程長 雷「ジャンケンに負け ×口径統一に無頓着だ 上の続き なん

閲覧:1791 コメ:14 クリップ:3

実際に平和条約締結す こう見ると樺太と北海 元々、サンフランシス したがって、ロシアは 満洲国は入らないの? 主の言うとおりだ もう少し大きい画像を この解釈は正しい

閲覧:1647 コメ:8 クリップ:5

いいですねぇー かっけ―! あいTT と言いつつ夜 また、すごいできです

閲覧:1410 コメ:4 クリップ:2

最初期から実装されて あ~、だから最初の陽 ↑雪風:…深雪ちゃん… 深雪「え?日本ってア ↑…なるほど…この後の セピア色にしたら雪風

閲覧:800 コメ:6 クリップ:5

何を言う?早見優! 右手のサインに気づい かわいいし構図も素敵 かわいいなぁ テルアキ提督!?(ゲ 何を言う?早見優 これは期待大! 漣に「お兄様」と呼ば まだ大正の香り

閲覧:8915 コメ:18 クリップ:172

主役は淵田美津雄中佐 パール・ハーバーが色 トラ←黄黒←ハチ←飛ぶ& ツクバヤマハレ トゥーラトゥーラトゥ 日米合作の映画らしい トラ3・・・トライア トラトラトラ狙い撃

閲覧:10146 コメ:24 クリップ:52

佐藤大輔作品にも出て 超甲巡なら・・・下の

閲覧:939 コメ:2 クリップ:3

南方軍第15軍が行った、ビルマ攻略作戦の経過概要図を戦史叢書を元に描いてみました。今回は第一期作戦までです。【兵力について】作戦を担当する第15軍は、本来マレー半島を攻略する第25軍の背面を安定確保するための軍で、兵力は2個師団、しかも第55師団は師団で一番強いといわれた歩兵第144連隊を始め約1/3の兵力を南海支隊として南太平洋に派遣しており、第33師団に至っては主力の大半がまだ中支徐州に居るという状況でした。【戦闘経過】昭和16年12月、第55師団から編成した宇野支隊がビルマ最南部ビクトリアポイントを占領します。その後第55師団と第33師団はタイ~ビルマ国境付近に集結、険しい山脈が連なる国境を一直線にモールメン方面に進攻するルートに決まりました。1月20日、第55師団が国境を突破、続いて第33師団も突破し各地に展開する敵第17インド師団の諸部隊を撃破しモールメン、パアンを占領、BIA支援の下サルウィン河を渡河、シッタン河の線まで達しました。ここからラングーンを攻略すべく、まず北方から南下するであろう重慶軍を警戒するため、第55師団のうち川島支隊(騎兵第55連隊基幹)をダイクに配置し、主力はペグー南方地区へ向け前進、また歩兵第112連隊第1大隊をラングーン南方シリヤムの精油所を確保する為南下させました。第33師団は敵との遭遇をなるべく避け兵力を温存し、ラングーンを奇襲攻撃するべく一挙にペグー山系まで前進、隠密裏にラングーンを目指しました。第55師団は、ペグーにおいて敵第7装甲旅団のM3軽戦車多数と遭遇、山砲では戦車に歯が立たず、新しく戦場に追及してきた戦車第2連隊軽戦車中隊、独立速射砲中隊も全滅という被害を受けながらも、地雷と火炎瓶による肉薄攻撃で撃破、主力は戦車が行動困難なペグー西方へ迂回し、ペグーを攻略しました。ペグー山系を南下する第33師団は3月7日、早くもラングーン北方地区に進出しました。この時左縦隊である歩兵第214連隊はペグーから敗走してきた敵機甲部隊と不意に遭遇、激戦となりました。その間に右縦隊である歩兵第215連隊は一挙にラングーン市街に突入、3月8日、ラングーンを占領しました。

閲覧:269 コメ:0 クリップ:0

SketchUpよりお借りしました。                                    【「1941年(昭和16年)4月10日附で第三航空戦隊は4隻(鳳翔、瑞鳳、三日月、夕風)となった(wiki)」。両艦とも最終形態ですけど。並べてみると、やはり鳳翔は小さいですね。

閲覧:69 コメ:0 クリップ:1

昭和16年8月~10月に北支那方面軍が行った「晋察冀辺区粛正作戦」を戦史叢書を元に描いてみました。晋=山西省・察=察哈爾省・冀=河北省一帯に跨る北部太行山脈を根拠地とする共産軍約4万強に対する一大粛正作戦で、対共産軍治安戦の中でも特に大きな作戦の一つです。①第一期作戦 第一次まず方面軍直轄の進攻兵団(甲・乙・丙)の内、甲兵団が陽動として北京北東密県地区の共産軍根拠地を掃蕩(図では省略)、乙および丙兵団が呂正操率いる冀中軍区の共産軍を滹沱河河畔に圧迫し覆滅。②第一期作戦 第二次北部太行山脈の根拠地に対し進攻および封鎖を実施するため、各兵団が第1軍・駐蒙軍と協力し担当地区を進撃、甲兵団が拒馬河渓谷へ敵を圧迫・乙兵団が第1軍分区および第2軍分区に対する攻撃、丙兵団は晋察冀辺区および冀西軍区の本拠である阜平・陳家院を攻略。③第二期作戦封鎖線(遮断線)を徹底しつつ、作戦地域の要点に歩兵大隊~中隊単位で分駐、残存潜伏する共産軍を索出掃蕩および根拠地施設の破壊。作戦終了後は経済封鎖により今作戦の成果を拡充。晋察冀辺区粛正作戦では、進攻作戦と並行し、政治・経済・文化工作も行い、敵地区民衆と共産党との分離および、党組織中枢を破壊し組織力を混乱させることも行いました。ちなみに今作戦のエピソードとして、昭和17年公開の映画「将軍と参謀と兵」があります。この映画は陸軍省協力の下、山西省五臺(概要図参照)をロケ地として独立混成第3旅団の独立歩兵第8大隊第4中隊・独立歩兵第9大隊第2中隊がエキストラ参加し、晋察冀辺区粛正作戦の実戦にロケ隊も参加・撮影が行われたという映画です。作中の作戦モデルは昭和16年5月の「中原会戦」ですが、山西省特有の山岳地帯とそこを警備する陸軍部隊の様子がリアルに見ることができますので、興味がある人はおすすめです。

閲覧:343 コメ:0 クリップ:0

昭和16年9月に日本陸軍からの急降下爆撃機開発の要請を受けて、川崎航空機で設計を開始したのがキ66である。試作第1号機は、昭和17年11月に完成した。 キ66は、九九式双発軽爆撃機とよく似た外見(両機とも設計は土井武夫技師)を持っていたが一回り小さく、左右の主翼下面にスノコ状のダイブブレーキを装備していた。これは、昭和14年に陸軍が研究用にドイツから購入したユンカース Ju 87の物を参考にしたと思われる。爆弾搭載量は300~500kgで、腹部の爆弾倉に装備された。この他に、対地攻撃用と防御用に機銃を5丁装備していた。 飛行審査は昭和18年2月から開始された。飛行性能は概ね良好だったが、最大速度が九九式一型双発軽爆撃機より40km/h程度の差しかなかったため、陸軍では速度性能を中心にさらなる性能向上型の開発を指示した。しかし、川崎飛行機ではこの要求に応えるだけの開発余力はなく、また同時期に完成した九九式双発軽爆撃機に本機と同じダイブブレーキを取り付けた型(二型乙)がある程度の急降下爆撃に使用できることが判明したことから、陸軍内において急降下爆撃機は九九式双発軽爆撃機で十分との意見が出て、結局昭和18年10月にキ66は不採用となってしまった。製造機数は試作機3機、増加試作機3機の合計6機であった。 なお、本機の主翼の設計はキ96に流用され、引き継がれた。

閲覧:276 コメ:0 クリップ:1

<<前の20件 | 1 | 次の20件>>