高倉天皇 を含むイラストが 1 件見つかりました ( 1 - 1 件目を表示 ) タグで検索

<<前の20件 | 1 | 次の20件>>
絞り込み: 一般 (1)  |  春画(R-15) (0)  |  すべて (1)

昨日はマルチ鯖を共同運営しておられるヨナさん user/27993902 から思い掛けずお誘いを受けて、(いつもの鈍くささ全開でアカウント取るのまごつきつつw)鯖の方に遊ばせて貰った次第。 これは太田静六 著『寝殿造の研究』(吉川弘文館 1987年)に掲載された高倉天皇の里内裏時代の仁安3年(1168)頃の閑院第の復原図(同書556頁)を、一昨年の夏くらいに方眼紙に描き起したもの。 閑院第は平安時代初期の貴族、藤原冬嗣(775 - 826)の邸宅だったところで、最盛期にはその敷地は南北2町(つまり東西約140m/南北約280m)に股がる大邸宅だった。 しかも東隣には藤原道長の屋敷としても有名な東三条殿(寝殿造りの復原模型としてもお馴染みw)、西隣にはこれまた堀河殿と同じ規模の大邸宅に挟まれていて、いずれも摂関家との所縁の深い邸宅だった。特にこの閑院第と堀河殿は歴代天皇の里内裏として度々使用された事でも有名なもの。 寝殿造りは基本的に敷地南側の壁面は庭で閉ざされていて、敷地の表玄関(造りとしては四足門)は東か西に設けられていた。この閑院第は東側が表玄関扱いで、東三条殿や先日放映されたかぐや姫の屋敷もこの形態だった。こういう表玄関が東向きの屋敷を「東礼」の屋敷云々と言っていたらしい。  それで、この図は太田先生が高倉天皇時代前後の日記類等の史料の記述から復原されたものだけど、紫宸殿の代わりとなった寝殿や清涼殿の代わりとなった東対屋は良いとして、西対屋や北対屋がかなり省略されていた事が分かる。閑院第は幾度も天皇の里内裏になるほど格式高い屋敷だったが、源平合戦前後の平安末期には、東西の対屋が平等に建てられるよりも、使用頻度の低い対屋は造りが簡略化され小振りになっていたようだ。閑院第だけでなく平安時代の貴族邸宅は、幾度も火事や家主の好みに合わせ頻繁に増改築等を繰り返していたそうで、その事が指図(復原図だけど)にも反映しているらしい。 それで、この描き起し図は柱間を5ブロックとして描き起したものだけど、侍所を除いても東西で軽く150ブロック近く潰れているのが分かる(w 南庭の規模をどのくらいにするかにもよるが、柱間を5x5(柱を含めると7x7か)にした場合、200x200ブロックは整地する必要が有ると覚悟せねばならない(w

閲覧:292 コメ:0 クリップ:1

<<前の20件 | 1 | 次の20件>>