1937 を含むイラストが 99 件見つかりました ( 81 - 99 件目を表示 ) タグで検索

関連タグ:
 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 次の20件>>
絞り込み: 一般 (99)  |  春画(R-15) (0)  |  すべて (99)

米海軍が採用した初の全金属引き込み脚付き艦上戦闘機。試作機の初飛行は1937年末。グラマン社の新型機開発(後のF4F)が難航したためブリュースター社(英語の発音を正確に表現するとブルースター社)が提案した本機が採用された。 初期型のF2A-1は1939年6月から配備されたが、これまで飛行機の部品や自動車の製造経験・極少数の飛行機組立経験はあっても飛行機1機全体を量産するのは本機が初めてだったブリュースター社は製造効率が非常に悪く、海軍からの第1次発注数66機に対し最初の半年間で納入できたのが11機しかなかったなど納入の遅延がひどかった。 F2Aの納入が遅れる間にグラマン社はF4Fの完成度を高めることができ、海軍にも採用されて量産に着手した。後から登場したF4Fが性能的に上でもあり納入も順調、海軍では数の揃わないF2Aを見切りつつあって、冬戦争の勃発によりフィンランドへの供与に切り替えられた。 続いて翼への爆装機能追加・パワーアップ型のF2A-2やA-3が生産されたが、増加した重量に対して艦上機としては着陸脚が弱いという欠点も増え、1941年5月までにF4Fに交替して、ミッドウェーなどの基地航空隊にまわされた。またイギリスやオランダにも輸出され、日本軍機の性能が過小評価されていたこともあって、東南アジアの植民地に配備された。これらは太平洋戦争序盤に、日本軍の零戦や隼との戦いで大損害を受けることになる。 本来のアメリカ海軍の要求である艦上戦闘機としては十分な航続力が求められたため燃料搭載量も多かったが、輸出先の陸上運用では航続力の優先度は低かったため、本機の欠点である機動性の悪さを補う目的で燃料を減らした状態で出撃する工夫も行われたと伝えられる。

閲覧:192 コメ:0 クリップ:1

LeO 451は、フランスのリオレ・エ・オリビエ社(Lioré et Olivier)によって第二次世界大戦直前に開発された爆撃機である。1937年1月16日に原型のLeO 45-01が初飛行したが、この機体をより強力なノーム・ローンエンジンに換装したのがLeO 451で、1号機は1938年10月21日に進空した。全金属製の機体で、胴体を曲線でまとめた双尾翼式。1939年9月から量産開始したが生産が遅れ、ドイツ軍侵攻時にはわずか100機程が使用可能状態だったに過ぎなかった。このため、優れた爆撃機でありながら、実際の戦闘において貢献することはほとんど無いまま終わった。 停戦後も生産は続けられ、様々なバリエーションが作られた。最後の機体が退役したのは1957年であった。

閲覧:171 コメ:0 クリップ:0

戦車部隊に歩兵を追随させるために1937年から開発を開始した中型装甲兵員輸送車の制式番号を指す。この制式番号がドイツの装甲兵員輸送車の代名詞となった。ドイツ語で"Mittlerer Schützenpanzerwagen"と表記される。

閲覧:75 コメ:0 クリップ:0

WWII前のアメリカ海軍が新型のヨークタウン級航空母艦に搭載すべくダグラス社に開発を依頼した艦上雷撃機。 1935年に初飛行、1937年から就役し、太平洋戦争開戦時の主力艦上雷撃機であった。 アメリカ初の艦載単葉金属機であり、引込脚など当時の先端技術も盛り込まれていた。 デヴァステイターは破壊者の意味。 しかし日本との開戦以降は旧式化がいなめず、ミッドウェー海戦では直衛についていた零戦に迎撃され甚大な被害を出した。それでも珊瑚海海戦で祥鳳を撃沈するなど戦果も挙げている。 後継機のTBFアヴェンジャーの配備が進んだ1942年から前線配備が減少し1944年に全機引退となった。生産数129機。 Mk13魚雷が前下がりに懸架される、主脚は引き上げてもタイヤの下半分が主翼の下に露出したまま残るといった外見上の特徴もある。

閲覧:173 コメ:0 クリップ:0

 1936年に英国航空省が出した仕様書T23/36により開発された双発練習機。創立間もない エアスピード社(1931年設立)としては軍の受注にからむチャンスだとして、これまで民間向け に実績のあるAS.6エンボイの 基本設計を流用した機体を提出し、1937年に136機もの制式発注を受けることに成功した。  基本構成は操縦練習用の3座(正副操縦士(訓練生)+教官の計3名)であるが、機銃射手、爆撃 照準士、空撮カメラマン、航法士、無線士用などの座席を設置して機上作業練習機としても使用でき るよう設計されていた。  1939年に第二次大戦が勃発すると、必要な航空要員を確保するため英連邦航空訓練計画 (British Commonwealth Air Training Plan (BCATP))が発動され当機の需要も急速に高まったのだ が、エアスピード社だけでは生産が需要に追いつかず、デ・ハビランド社やパーシバル航空機、スタ ンダード自動車などの工場でも生産が行われ、1945年7月の生産終了までに八千機を越える大量 の機体が生産され、英連邦各国のほかフランスやポルトガル、果てはアメリカ陸軍も当機を使用した。  なおイギリス空軍の機体のうち、戦後余剰となった機体の多数がギリシア空軍やオランダ空軍へ譲 渡・売却されているほか、1950年代半ばにイギリス空軍を退役した機体もベルギー空軍へ売却さ れている。また一部の機体は民間輸送機(AS.65と同じ規格)に改修され、民間へ払い下げられ ている。

閲覧:97 コメ:0 クリップ:1

戦間期のソ連戦闘機は、初の国内設計機であるI-1以来ポリカールポフ(ポリカルポフとも)の設計した戦闘機であり、本機もポリカールポフの設計であった。原型は1932年に開発が始められたTsKB-3(ЦКБ-3)で1933年に初飛行した。 本機の大きな特徴となっているのがその翼形で、上翼は左右が分割して胴体に取り付けられたガル翼で、前方視界が大きく取られていた。また下翼は半葉とまではいかないものの上翼よりかなり小さく、翼間支柱もI字型の一張間と洗練されていた。この結果、最高速度はやや低かったが旋回性能は第一級であった。部隊配備は1934年末から開始された。 1937年から改良型のI-15bisの生産に切り替わる。改良点は主翼上翼を通常のパラソル型とし、対地攻撃用武装の追加、発動機の出力強化であった。これにより最高速度の向上と軽攻撃機としての運用が可能となった。 スペイン内戦、ノモンハン事変を始めとして、独ソ戦初期まで用いられたが、スペイン内戦ではCR.32相手にI-16では旋回性能が劣ったため、緒戦では劣勢に立たされた。そのためソ連はI-16の改良型ではなくI-15の改良型I-15ter(後のI-153)を開発することとなる。日本においては、ノモンハン事変で日本の戦闘機にかなわなかったためにI-153が開発されたとする間違った説が流布したが、実際にはノモンハン事変よりも前にI-153は開発され、事変での戦闘にも投入されている。 こうして一線級からは外されたが、独ソ戦開始時もかなりの数が部隊配置されており、主に軽攻撃機として使用された。

閲覧:73 コメ:0 クリップ:0

ハンブルグ航空機製造会社の技師長リヒアルト・フォークト博士(Dr. Richard Vogt:日本の川崎航空機 にも一時雇われていた高名な航空機設計技師)が最初に製作した飛行艇。原型は双発として計画されてい たが、搭載予定であった一千馬力級エンジンの開発が遅れたため、650馬力のユモ205Cエンジンを 3発搭載するように再設計された。  1937年7月に原型1号機が完成しHa138と名付けられ初飛行を行ったが、空気力学的にも流体 力学的にも不安定であることが判明し再度徹底的な再設計が行われた。  1940年に完成した改良型機体はハンブルグ航空機の親会社であるブロームウントフォス社の機体呼 称を採用し、Bv138と呼ばれるようになった。再設計された機体は艇体がかなり大型化され、尾翼も 変更されていた。  1940年のノルウェー戦役から実戦参加したが、最初の生産型であるA型やB型は構造に無理があっ たため1941年には改良型のC型が開発され、これが主力生産機種となっている。  大戦中はUボート部隊と組んでバルト海、北大西洋、北極海などでソビエト向け輸送船団の攻撃などに 従事した。また磁場発生装置を搭載した機雷掃海型や対艦船レーダーを装備した型も少数が製作されてい る。

閲覧:91 コメ:0 クリップ:1

Bf109は、第二次世界大戦におけるナチスドイツ空軍の主力戦闘機。Me109とも呼ばれる。Bf109はまだ航空機が過渡期であった1934年にメッサーシュミット博士が開発したスポーツ機Bf108の経験を元に開発した機体であった。初飛行は1935年で、ハインケル社のHe112と制式採用の座を争ったが結果的にはBf109の勝利に終わった。1937年のスペイン内乱に際してドイツはBf109の初期生産型(680馬力Jumo210B/Dエンジン搭載のA及びB型)3個飛行隊を派遣した。この戦いではソ連の新鋭機ポリカプフI-16やI-15は敵ではなく、ドイツの撃墜王ウェルナー・メルダースが考案し、ドイツ空軍の御家芸となった2機編隊で集団を編成するロッテ戦法が考案されるなど、空中戦闘のノウハウを蓄積するにも役立ち、実戦経験を積ませることができた。そして第二次世界大戦が始まった頃には、Bf109はエンジンを大幅に強化し戦訓を取り込んだE型に切り替わりつつあった。 Bf109は日本の96艦戦などとほぼ同時期の開発であるにもかかわらず、E型・F型での大改修をへて、馬力をほぼ3倍に強化して終戦まで使用され続けた。しかし「小さな機体に馬力の大きいエンジンを」というコンセプトを優先し、他の部分が犠牲になったため、航続距離が短い、操縦席が狭く後方視界が悪い(実際はそこまで問題視はされておらず、手元に近いスロットル位置なども評価されている。)、主脚の強度不足(倒立エンジンはプロペラが低い位置に来るため、脚を長くする必要あった)と狭いトレッド幅、離着陸性能が極めて悪い、火力不足など欠点も多かった。 着陸性能の悪さと航続距離の問題は最後まで付きまとったものの、突っ込み速度は他の追随を許すことはなかった。直線番長に思われるが意外と低速での運動性は良く、逆に動翼が羽布張りのため高速時には痩せて、エンジンブレーキを使わないと操縦が効きにくくなる。 独軍機全般に言える事だが、計器の配列がとても分かりやすい配列になっており、Bf109の場合「右側に動力関係の計器」を、左側には「飛行関係計器をまとめて配置」されている。実際では各種ハンドル、スイッチの類もすべて手短な位置に設置されており、Bf109のテスト飛行をした連合国パイロットからも称賛されている。

閲覧:202 コメ:0 クリップ:0

Tansoku102cm様の「グラフシュペー」「R級戦艦」「フッド」モデルさん達をお借りしました。ありがとうございます。                                             【『ジョージ6世戴冠記念観艦式』の画像を再現したいと考えたのは2014年10月UPの静画「ビッグセブン」の頃。随分間が開いてしまいました。その一枚のメインは一番前のシュペーさん。当時Tansoku102cm様の「モブポケット戦艦1945」さんを弄らせて頂いていました(遠い目…)。SketchUpにシュペーさんがUpされているのを見つけ速攻DL。検索で見つけた三面図を参考にさせて頂いたのですが…絵師様によって艦橋煙突辺りの位置関係が異なってたりするんですよね・・。当時の写真に重ねて一番近い図面を選択しました・・って何とか形になり改めて静画検索した所102様の新作ポケット戦艦モデルさんを発見してorz。というわけで改装前のライトグレーver.をSUモデルさん、改装&迷彩ver.を102様モデルさんと使い分けをさせて頂く事にしました。

閲覧:123 コメ:0 クリップ:1

 フランス政府が1930年に出した新型単座戦闘機の要求(仕様書C1)に応えて開発された機体。ブレリオ・ スパッド(SPAD=Société Pour L'Aviation et ses Dérivésは第一次大戦時に 有力な戦闘機を輩出したフランスの航空機メーカー。1920年代にブレリオ社へ吸収された)は 試作機S91をベースにした複葉戦闘機を提案した。  1933年初頭に完成した原型機は、楕円形断面のジュラルミン構造(胴体後部はモノコック) 胴体に布張り主翼を持つ機体で、上下主翼はI型の支柱で結ばれていた。上翼のみ後退角 があったが、補助翼(エルロン)は上下翼両方に装備されている。液冷のイスパノスイザV12型 エンジンを搭載していたが、ラジエータは前面設置だったため一見空冷エンジン搭載に見えた。主翼 支柱や主脚は空力的に成形されており、車輪部にも大きなスパッツが装備されている。  飛行テストで指摘された不具合(安定性と操縦性の改善)については改修が行われ改善したが、他 社機との比較試験で、ドボワチーヌ社のD500の 方が速度的に優れていることが判明したため、当機は採用されなかった。  その後1935年にルイ・マソット(Louis Massot。第一次大戦時のエースパイロット)が、仏航 空相デナン将軍に対してS510の展示飛行を行い、複葉機が機動性や上昇力で(当時の)単葉戦闘 機に劣らないことを示したため、同年8月に60機の生産を受注することに成功した。  翌36年に量産型が完成し、第7戦闘機連隊の部隊(GC I/7およびGC II/7)に配備されたが、第二 次大戦が始まる頃には、後方の防衛部隊(地方飛行中隊)および飛行訓練校へ送られており、ほとんど 実戦を経験することは無かった。ちなみに、少数の機体がスペイン内乱に際し、スペイン共和軍に使用 されたとの説があるが、これは確実な記録が残されていない。  なお1937年に密閉型操縦席や引込脚、新設計の水平尾翼などを持つ改良発展型のS710原型が 製作されたが、この機体は同年6月に墜落し、操縦士を務めたルイ・マソットが死亡したため量産され ることなく終わっている。

閲覧:113 コメ:0 クリップ:0

 ポーランドのイカルス工場では、フランスのポテ社やチェコスロバキアのアビア社から機体ライセンス を購入して航空機製造の経験を積んでいた。1934年になってIK-L1と名付けられた初の国産機開 発が行われ、翌年4月22日に初飛行を行った。この機体はポーランドPZL社のP.8戦闘機( P.11のベースとなったP.7戦闘 機のエンジンを液冷に変更したもの)に似たガル翼単葉の機体であった。  IK-L1原型機は3回目の試験飛行中に急降下からの引き起こしができずに墜落したが、続いて製作 された機体(IK-02と名付けられた)は当時第一線級だった英ホーカー社のフュアリ複葉戦闘機よりも 高い能力を示した。ユーゴスラビア空軍はこの機体を12機発注し、1937年中(1939年説もある) に全機が納入された。  1941年4月にドイツ軍がユーゴスラビアへ侵攻した際に、当機は第4戦闘機連隊第107飛行隊に 所属し、攻め来るドイツ軍戦闘機と果敢に交戦したが多大な損害を被った。

閲覧:133 コメ:0 クリップ:0

 第二次世界大戦初期のイギリスの主力双発爆撃機の一つ。細い金属フレームを斜め格子状に組み合わせて編んだ上に羽布を張った大圏構造を採用し、生産性は悪かったが軽量かつ被弾に強かった。  原型機は1936年初飛行、量産1号機が1937年初飛行、1938年から実戦部隊への配備が開始され、初の実戦参加は1939年9月。開戦時はドイツへの昼間爆撃にも用いられていたが、同年末の作戦中に甚大な被害を受けたことから夜間爆撃のみに用いられることとなり、1943年夏まではドイツやイタリア工業地帯への爆撃任務のほか地中海・アフリカ方面でも活躍した。これ以降は夜間爆撃でも四発爆撃機が主力となり、沿岸哨戒や輸送・爆撃練習・無線航法練習など様々な用途に転用された。水上航行中のドイツ軍潜水艦(Uボート)捜索のために海上を照らすサーチライトを主翼下に備えた機体や水上捜索レーダーを備えた機体、潜水艦攻撃手段としてロケット弾懸架レールを主翼下に用意した機体などが哨戒用に新たに生産された。これらを含め、イギリス爆撃機としては最多の11,461機が生産された。  「ウィンピー」(Wimpy)の愛称で親しまれ、また小説『ブラッカムの爆撃機』の題材にもなった。

閲覧:107 コメ:0 クリップ:0

伊号第六十三潜水艦殉難者 荼毘之地 1939年訓練のため豊後水道にある水ノ子島灯台の海域へ配備された伊号第六十三潜水艦は伊号第六十潜水艦に右舷から衝突され沈没しました。佐世保凱旋記念館では海軍合同葬が行われ沈没した水深93メートルからの引き揚げ作業が完了したのは沈没の1年後であり、1991年に『伊号第六十三潜水艦殉難者 荼毘之地』の石碑が建立されました。この石碑は瀬会公園キャンプ場の南側にあり、また同地域にある真宗寺(本堂左奥から裏山へ続く階段を上る)と長崎県佐世保市の佐世保海軍墓地には慰霊碑があります。 海軍中佐 友永丈市君誕生地 温泉の街と知られる大分県別府市の出身である海軍軍人・友永丈市はミッドウェー海戦にて空母飛龍の艦載機の一員として戦いました。飛龍の前には赤城や加賀にも乗り込んでおり、加賀では1937年に起きた日中戦争へ参加しその後は宇佐や霞ヶ浦の航空隊を経て飛龍の飛行隊長に着任します。1942年のミッドウェー海戦では敵戦闘機との交戦で燃料タンクに被弾し飛龍へ帰投するも再び出撃し米空母ヨークタウンへ攻撃を行い戦死、その後は生まれ故郷である別府市に『海軍中佐 友永丈市君誕生地』の石碑が建てられグーグルマップでは『友永丈一大尉生誕地碑』と表記されています。 ちなみに飛龍の隣の銅像は油屋熊八という人物で米相場で成功するもその後に相場で失敗し全財産を失い46歳の頃に別府温泉へ移りホテル経営で成功しました。女性バスガイドが案内をする観光バス(別府地獄めぐり)を日本で初めて導入し、大阪の上空から飛行機でビラをまいたりと別府の名を全国に広めた人でした。1935年73歳で別府市にて死去。 場所:瀬会公園キャンプ場・真宗寺 住所:大分県佐伯市上浦大字津井浦 最寄駅:JR浅海井駅 住所:大分県別府市野口中町16−16 最寄駅:JR別府駅 使用モデル つみだんごさん 潜水空母伊401 ゴリマさん 飛龍改二

閲覧:384 コメ:0 クリップ:1

Ca.309はカプロニ社が設計・製造したイタリア植民地向けの偵察機・軽爆撃機で1937年初飛行。 それまで偵察任務に用いられていたIMAM Ro.1複葉機を置き換える目的で、民間航空会社向けに8機製造された 小型旅客機Ca.308 Boreaをベースにして生まれた。 愛称のギブリ(Ghibli)は砂漠に吹く熱風の意味で、後にジェット軽爆撃機AMX A-11がその2代目を名乗ったほか 日本のアニメーション制作スタジオ「スタジオジブリ」の語源でもある。 単葉双発で、鋼管骨格に、場所に応じて軽合金表皮あるいは木製合板に羽帆張り、動翼部は羽帆張りなどの 複合構造になっていた。当初から植民地向けであったため、高性能よりは単純構造や整備性の良さを設計の 主眼としており、スパッツ付き固定脚や倒立空冷直列6気筒のアルファ・ロメオ115-IIエンジン(390hp)が 採用された。 当初はイタリアの植民地であったリビアに配備され、WWII開戦によりリビアもアフリカ戦線の一部となった ことで実戦参加となり、対抗対空戦力の無い場面で戦果をあげた。 イタリア軍がアフリカを失った際にイタリア本国に引き上げられた機体は後方の輸送任務に就いた。

閲覧:225 コメ:0 クリップ:0

 1937年に製造されたドイツ最後の蒸気動車です。上段が登場時、下段が戦後の東ドイツ国鉄時代の姿です。解説:http://blog.livedoor.jp/isorokuma/archives/55481293.html 参考 http://www.reichsbahntriebwagen.de/dt%2059.htm    http://drg-modell-berlin.de/produkt/dt-59-berlin-in-tt/    https://de.wikipedia.org/wiki/DR_59    https://de.wikipedia.org/wiki/Dampftriebwagen    http://neetronica.blog.fc2.com/blog-entry-19.html

閲覧:216 コメ:0 クリップ:0

(1937年4月28日 - 2006年12月30日) イラン戦争、湾岸戦争を引き起こしたのちアメリカとのイラク戦争の敗北によって失脚し、処刑された。

閲覧:107 コメ:0 クリップ:0

単座複葉戦闘機。複葉で固定脚ではあるがコックピットは密閉式になるなど近代化されている部分もある。試作機の初飛行は1934年、部隊配備は1936年から開始されたが実戦可能となったのは1937年になってしまった。イギリス空軍では大戦初期に活躍、輸出先のフィンランドでは冬戦争・継続戦争でソ連相手に奮戦しエースも輩出した。Stockゲームには収録されていないが着艦フックなどを追加装備した空母搭載型(艦上機仕様 Sea Gladiator)もある。  イギリス航空省が1930年にホーカー・フューリーの後継機として出した新型戦闘機の仕様書F.7/30は、当初高性能な単葉機を求めるものであった。しかしこの時点で各社が製作した試作機は固定脚であったり(主に推薦されたゴスホークエンジンが失敗作だったことによる)エンジンの非力さ・信頼性なさなどにより要求性能にほど遠い駄作ぞろいで、航空省も財政難から結実するか不透明な新型機への投資を躊躇した。グロスター社はこの仕様書に沿わず、前に開発したゴーントレット戦闘機を改良した複葉機を独自開発し、航空省もこの機体で当座を“つなぐ”ことに方針変更してグラディエーターとして採用した。  余談だが、この当初要求されていた単葉機案を各社が独自に進化・洗練させたものが、後にハリケーンやスピットファイアとして結実することとなる。  IL-2 1946内では「J8A」はMk.Iのフィンランド向け型となっているが、本来この型式名はMk.IIのスウェーデン輸出型(余談だがMk.Iのスウェーデン輸出型はJ8)。史実ではスウェーデン義勇兵が装備のJ8とJ8Aをフィンランドに持ち込み、フィンランド空軍の識別マークを塗装してソ連相手に戦ったとの逸話はある。その他ノルウェー、ギリシア等にも輸出。運動性は非常に優れているが低速・低火力で防弾も弱く、Bf 109など単葉機が戦力化された開戦時には明らかに旧式化しており、複葉機を主力とするイタリア空軍以外との戦いではどこでも苦戦した。  

閲覧:193 コメ:0 クリップ:0

ファルマン F.222 (Farman F.222) は、フランスのファルマン社によって開発された重爆撃機である。原型は1933年に製作されたF.221で、1937年から部隊配備が開始されたフランス初の実用4発重爆撃機だった。第二次世界大戦時においては旧式化していたが、一部の機体はドイツやイタリアに対する爆撃任務に投入された。

閲覧:163 コメ:0 クリップ:0

 1934年7月に発行された英国航空省仕様書B3/34に基づき開発された重爆撃機。アーム ストロング・ホイットワース社お得意の鋼管構造を取りやめ、軽金属モノコック構造へ転換を果たし た機体として同社の歴史上重要な位置を占める(また同社設計の機体のうち最多製造機数を誇る機 体でもある)。  原型機は1936年3月に初飛行し、原型2号機以降は生産型として1937年から軍へ納入さ れている。直線状の胴体前後に銃座を配した特徴的な機体は、第二次大戦開戦時から英国空軍の主 力重爆撃機としてビッカース・ウェリントンや ハンドリページ・ハンプデンなど と共に数々の戦場を飛び回った。特に特筆すべき参加作戦としては開戦第一日目の宣伝ビラ散布や 1940年5月のドイツ主要地域初爆撃、同年8月のベルリン初爆撃などがある。  速度性能や高々度飛行性能が低かったため任務は夜間爆撃が主であったが、やはり性能不足の感 は否めず1942年には爆撃部隊から退き、哨戒司令部傘下の哨戒機やグライダー曳航練習機など に使用されるようになっている。

閲覧:100 コメ:0 クリップ:0

 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 次の20件>>