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イギリス海軍ヨーク級重巡洋艦エクセター(HMS Exeter)をリメイクしてみました。ロイヤルネイビーの重巡にしては走攻守のバランスがいいほうで(というか日米の重巡がガチ過ぎる)、ラプラタ沖ではアドミラル・グラーフ・シュペーと戦い、スラバヤ沖では敢え無く沈みました。なお、本作(なんか偉そうw)は1942年のエクセターで竣工時とは随分艦容が異なります。

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ソ連版「DC-3」改  米国ダグラス社に派遣された経験を持つ技術者ボリース・パーヴロヴィチ・リスノーフが、DC-3を基本にしつつソ連向けに小改良を加え、寒冷気候に強いソ連製エンジンを搭載した輸送機を設計し、「PS-84」と呼称した。  この機体は1942年以降Li-2の名称で軍用輸送機として量産された。また爆弾を1 tまで搭載する軽爆撃機としての運用も行われた。

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【坂井三郎(1916ー2000)】                                                  ▽                                                  「坂井佐久良」の先祖である人物。佐賀県出身の元大日本帝国海軍軍人。「ポツダム昇級」により最終階級は中尉。困窮した幼少期や上京したものの青学中等部を成績不振で落第するなど苦労をする。しかし帰郷後に見た同郷の佐世保航空隊所属の平山五郎大尉の操縦する飛行艇を見て飛行機への憧れを抱き紆余曲折を経て海軍へ入隊。戦艦「霧島」や「榛名」の砲手を務めるが空への憧れを捨て切れず何度か受験をした後に年齢ギリギリに操縦練習生に合格。しかし当初は操縦が上手く無く卒業間際に漸く単独飛行を許され、その後努力を重ね操縦練習生を首席で卒業。卒業式で昭和天皇の名代として来た伏見宮博恭王より恩寵の銀時計を拝領する栄誉に授かる。その後複数の航空隊所属を経て戦乱下にあった大陸に渡り中華民国軍相手に初の実戦と撃墜を経験。その後再び前に所属していた台湾の高雄基地に戻り、程無くして海南島の三亜、ベトナムのハノイを経て再び大陸に戻りソ連領からの「援蒋ルート(北方ルート)」寸断の為の作戦に従事、この時当初の「九十六式艦上戦闘機」から乗り換えていた「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」の搭乗後初の撃墜を経験。それから東南アジアの各戦線を転戦した後に1942年にニューブリテン島のラバウル基地に配属。同じ中隊に配属していた同じ中隊の「西沢広義」(87機撃墜)と「太田敏夫」(34~36機撃墜)らと様々な逸話を遺す。しかしその四か月後ガダルカナル島上空での戦闘で負傷、この時に右目を失明する程の傷を負う。本土に戻り一度は転職を考えるもその後無理を押して復帰。硫黄島の戦いでは誤って米軍機15機に紛れてしまい危うく逃げ果せた。その後かの最強の航空部隊で知られる「第三四三航空隊(剣部隊)」に所属するも粗暴な面のあった坂井は若い搭乗員達とは折り合いが悪く、特に「武藤金義」(30機撃墜)とは激しく対立する程だった。1945年8月17日に第二次大戦最後となる空戦を最後に戦闘機乗りとしての経歴を終える。公式の認可する総撃墜数は28機。

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 1935年にフランス航空省が3座戦闘機を求めて発行した仕様書に基づいて設計された機体が元となる双発機。 この仕様書に対する設計案は最終的に ポテ630が勝利を収めたのだが、ブレ ゲー社は仕様書で限定された部分(エンジン出力や機体重量など)の制限を外した方が多用途能力を持ち得るとし て自社負担で開発を続行した。  ブレゲー690と名付けられた機体は1935年から原型機の製作が開始されたが、使用エンジンの割り当てが ポテ630に優先されたため完成は遅れ、1938年3月になってようやく初飛行することができている。  完成した原型機は試験の結果、ポテ630を上回る性能であることは認められたものの、主脚の強度不足か らブレゲー社に返却されている。しかしフランス空軍は1937年頃から複座攻撃機の採用に乗り気となっており、 この原型機は複座攻撃機構想を充分に満たしていたため、複座化して爆弾搭載能力を付与した機体がブレゲー69 1として発注された。  イスパノスイザ製エンジンの信頼性が低かったため、グノームローヌ社製エンジンに変更した693やP&W社 製エンジンを搭載した695なども製作され、第二次大戦開戦直後は進撃してくるドイツ軍に対して果敢な攻撃を 加えた。  フランス降伏後に生産中止されているが、残存機は1942年にドイツ軍へ徴発され後にイタリア空軍に供与さ れ練習機として使用されている。

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1942年5月4日、夕刻。 夜間着艦可能な熟練搭乗員を選抜し、空母「翔鶴」「瑞鶴」の2隻から九九艦爆12機、九七艦攻15機の計27機が出撃。 果たして日本軍は米機動部隊を捕捉できるか。 〇お借りしたもの 翔鶴・瑞鶴:sm11162072 九七艦攻:im3542216 九九式艦爆:sm12556222 夕雲型駆逐艦:im3973377 その他:im3732408 sm18673827 im6372997

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伊号第六十三潜水艦殉難者 荼毘之地 1939年訓練のため豊後水道にある水ノ子島灯台の海域へ配備された伊号第六十三潜水艦は伊号第六十潜水艦に右舷から衝突され沈没しました。佐世保凱旋記念館では海軍合同葬が行われ沈没した水深93メートルからの引き揚げ作業が完了したのは沈没の1年後であり、1991年に『伊号第六十三潜水艦殉難者 荼毘之地』の石碑が建立されました。この石碑は瀬会公園キャンプ場の南側にあり、また同地域にある真宗寺(本堂左奥から裏山へ続く階段を上る)と長崎県佐世保市の佐世保海軍墓地には慰霊碑があります。 海軍中佐 友永丈市君誕生地 温泉の街と知られる大分県別府市の出身である海軍軍人・友永丈市はミッドウェー海戦にて空母飛龍の艦載機の一員として戦いました。飛龍の前には赤城や加賀にも乗り込んでおり、加賀では1937年に起きた日中戦争へ参加しその後は宇佐や霞ヶ浦の航空隊を経て飛龍の飛行隊長に着任します。1942年のミッドウェー海戦では敵戦闘機との交戦で燃料タンクに被弾し飛龍へ帰投するも再び出撃し米空母ヨークタウンへ攻撃を行い戦死、その後は生まれ故郷である別府市に『海軍中佐 友永丈市君誕生地』の石碑が建てられグーグルマップでは『友永丈一大尉生誕地碑』と表記されています。 ちなみに飛龍の隣の銅像は油屋熊八という人物で米相場で成功するもその後に相場で失敗し全財産を失い46歳の頃に別府温泉へ移りホテル経営で成功しました。女性バスガイドが案内をする観光バス(別府地獄めぐり)を日本で初めて導入し、大阪の上空から飛行機でビラをまいたりと別府の名を全国に広めた人でした。1935年73歳で別府市にて死去。 場所:瀬会公園キャンプ場・真宗寺 住所:大分県佐伯市上浦大字津井浦 最寄駅:JR浅海井駅 住所:大分県別府市野口中町16−16 最寄駅:JR別府駅 使用モデル つみだんごさん 潜水空母伊401 ゴリマさん 飛龍改二

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北アフリカにスピットファイアなどの新鋭機が配備されるようになると、性能的に対抗するのは難しくなった。そして、ドイツ製のダイムラー・ベンツ DB601液冷エンジンを搭載した後継機のMC.202 フォルゴーレが登場した1942年以降は、次第に対戦闘機の任務から外され、戦闘爆撃機として利用されることが多くなった。

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シュルクーフ(Croiseur sous-marin Surcouf)はフランス海軍が建造した大型潜水艦である。1934年に竣工後、本艦は大西洋に面したブレストを母港とする第二水雷戦隊に所属し、モロッコ・ダカール・仏領ギアナに達するアフリカ大陸の仏植民地を周遊する試験航海を完熟訓練をかねて行ない、本艦の行動能力を実証した。第二次世界大戦において本艦は西インド諸島マルティニークにあり、その長大な行動能力を活かしてジャマイカからフランス本国を経由してイギリスに向かう輸送船団の護衛活動を開始した。フランス休戦後は1940年7月にイギリスで武装解除を受けたが、同年9月15日から自由フランスに所属した。1942年2月18日にカリブ海で米商船「トムソンライクス(Thomson Lykes)」と衝突、以後消息不明となり1943年12月6日に戦没認定される。     民明書房刊『世界の魔女図鑑』より

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【琴爪ゆかり(キュアマカロン)】(CV 藤田咲)                                             御存知「キラキラ☆プリキュアアラモード」第四の戦士「キュアマカロン」である少女。紹介に関しては先の「プリ☆メイド」において大体やってた気がするので今回は割愛させて頂くw                                              現在は本編で自分に求婚した「ナタ王子」の国である「コンフェイト王国」に留学し本格的なスイーツ修行に勤しんでいる筈なのだがどうやら持ち前の性格で着実にファンと言うか信者と言うか下僕が増えていた様で、今では国民の大半がゆかり信者という有様の様であるw まあどこぞのアクシズ教という狂信的邪教集団よりははるかにマシな気がするのだがw(笑)                                             今回は持ち前の勘の良さ、更に「自身の裏の力」(詮索禁止)によってあゆみとSS組の動向を察知し、万全のOMOTENASHI体制でお迎えする様である。                                             別世界で艦娘な自分のトラウマであるあの「魔の五分間」の様な徹は二度と踏んだりなどはしないのだ!

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大日本帝国海軍も双発急降下爆撃機の研究に用いるべく、1940年末に1機のJu 88 A-4を輸入した。1942年(昭和17年)8月17日、海軍航空技術廠により横須賀で行われた試験飛行の際、木更津飛行場を離陸したあと東京湾で行方不明になった。また、連合軍は大日本帝国陸軍がJu 88を運用していると誤認しており、「Janice」というコードネームを与えていたらしいぞ!

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1941年6月のドイツ軍のロシア侵攻から6カ月後に自由フランス軍とソビエト連邦の間の緊密な連携を目的とした会談が持たれた結果、当初12名の戦闘機パイロットと47名の地上要員で構成される東部戦線に従軍する特別飛行隊を編成することになった。ドゴールは1942年9月1日にジョセフ・プリカン(フランス語版)少佐指揮の第3戦闘飛行隊「ノルマンディ」(Groupe de Chasse GC 3 Normandie)の発足を公式に発表した。整備員、パイロットと機材が列車と空路を使いテヘラン(現イラン)経由でバクー(2006年現在アゼルバイジャンの首都)へ送られた。部隊はジャン・テュラーヌ(フランス語版)少佐が飛行隊の指揮を引き継いだ1943年1月末までにヤコヴレフ Yak-7を使用した訓練を完了しており、3月22日には実働状態となったんだ!

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1942年(昭和17年)8月7日早朝、ガダルカナル島ならびにツラギ島に米海兵隊が上陸。日本軍が建設中の飛行場を占領 これに対し日本軍は即時反撃を企図。ラバウルに展開していた航空部隊から零戦17機、一式陸攻27機、九九艦爆9機の計53機が出撃 このうち九九艦爆隊は航続力が足りないため当初より着水・機体放棄を前提とした片道攻撃であった(不時着した搭乗員の一部は救助に成功)

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WWII前のアメリカ海軍が新型のヨークタウン級航空母艦に搭載すべくダグラス社に開発を依頼した艦上雷撃機。 1935年に初飛行、1937年から就役し、太平洋戦争開戦時の主力艦上雷撃機であった。 アメリカ初の艦載単葉金属機であり、引込脚など当時の先端技術も盛り込まれていた。 デヴァステイターは破壊者の意味。 しかし日本との開戦以降は旧式化がいなめず、ミッドウェー海戦では直衛についていた零戦に迎撃され甚大な被害を出した。それでも珊瑚海海戦で祥鳳を撃沈するなど戦果も挙げている。 後継機のTBFアヴェンジャーの配備が進んだ1942年から前線配備が減少し1944年に全機引退となった。生産数129機。 Mk13魚雷が前下がりに懸架される、主脚は引き上げてもタイヤの下半分が主翼の下に露出したまま残るといった外見上の特徴もある。

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 東ヨーロッパの一国であるブルガリアが国産した軽爆撃/偵察機。D.A.R.(国立航空機工廠)が 開発し、1941年7月に原型機D.A.R.10Aが初飛行した。木製構造の主翼に鋼管溶接布張りの 胴体という木金混合機で、主翼こそ単葉だったものの主脚は固定脚と完成した時代から見れば時代遅れの 感がある機体であったことは否めないが、小規模ながら航空機の国内開発体制ができていたブルガリアは 東ヨーロッパ諸国で抜きん出た存在だった。  アルファ・ロメオ社製エンジンを搭載したA型原型機は試験飛行で優秀な成績を収めたが、1942年 夏に墜落し喪われてしまった。そのためブルガリア空軍では一時しのぎとしてカプローニ社のKB-11 を偵察機として採用した。  その後エンジンをフィアット製に変更した原型2号機D.A.R.10F(機体呼称のA型、F型は搭 載エンジンのメーカー頭文字から来ている)が完成し、1945年3月に初飛行した。出力が強化された エンジンと機体構造強化のおかげで急降下爆撃もこなせるようになった優秀な機体であったが、前年ソビ エトに侵攻されソビエトの衛星国家となっていたことから、それ以上開発は進められず量産化されること は無かった。(一部の資料では少数が生産されユーゴスラビア攻撃などに参加したとの説もある)  ちなみに「ベカス」とはブルガリア語で「シギ」(チドリ目の鳥類)のことである。

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